ひざをつく人
座った人の高さで、見ていた

朗読で聴く
第一章 横断歩道
七十二になった。
ウェールズの北の、スレートを切り出してきた山あいの、小さな町に住んでいる。
町の小学校の前に、横断歩道が一本ある。
わたしは、三十八年、そこで子どもたちを渡してきた。
黄色い上着を着て、止まれ、と書いた丸い板のついた棒を持って立つ。
朝と、午後と、毎日二回。
雨の日も、雪の日も、山から冷たい風が下りてくる日も。
町の屋根は、どれも、山から切り出した灰色のスレートでふいてある。
雨にぬれると、町じゅうが、少し青く光る。
三十四のときに、この仕事についた。
夫のトムは、スレートの山で働いていた人で、十年前に死んだ。
娘は、カーディフで看護師をしている。
朝、子どもたちが来ると、わたしは、一人ずつ、ひざをついて話しかける。
片方のひざを、歩道について、子どもの顔と、わたしの顔を、おなじ高さにする。
おはよう、手袋はどうしたの、今日は算数のテストだね。
それから、立ち上がって、棒を上げて、車を止めて、渡す。
三十八年、毎朝、そうしてきた。
前の係の人は、ちがった。
背の高い男の人で、棒を高く上げて、まっすぐ立ったまま、子どもを渡した。
子どもの頭の上から、早く、早く、と声をかけた。
第二章 ひざの人
町の役所の人には、何度も言われた。
まっすぐ立っていなさい。
しゃがんでいると、車から見えない。
あなたの仕事は、子どもとおしゃべりすることではありません。
わたしは、はい、と言って、それでも、ひざをついた。
なぜそうするのか、自分でもうまく言えなかった。
ただ、立ったまま話すと、子どもの顔が、遠くなる気がした。
車の運転手には、よくクラクションを鳴らされた。
あの人は、のろい。
一日の半分は、ひざをついている。
町の人には、ひざの人、と呼ばれた。
夫のトムにも、笑われた。
おまえは、ズボンのひざばかり、すり切らすな。
実際、わたしのズボンは、いつも、片方のひざだけが先にすり切れた。
毎年、冬が来る前に、すり切れたひざに、布をあてて縫った。
ズボンのひざは、いつも、ほかより一枚あつかった。
わたしも、自分は、まっすぐ立っていられない、だらしのない人間だと思ってきた。
第三章 オーウェン
三十年前の秋、一年生の男の子が、横断歩道に来るようになった。
オーウェンといった。
六つだった。
オーウェンは、いつも、何を言われても、黙っていた。
先生にも、親にも、返事をしない子だと思われていた。
ぼんやりした子だ、言うことを聞かない子だ、と言われていた。
でも、わたしがひざをついて話しかけると、オーウェンは、わたしの口を、じっと見ていた。
そして、小さな声で、答えた。
わたしは、毎朝、ウェールズの言葉で、おはよう、と言った。
ボーレ、ダー。
オーウェンは、わたしの口の形をまねして、ボーレ、ダー、と言った。
少し、音がちがっていた。
でも、口の形は、わたしと、まったくおなじだった。
おはよう。
手袋は、なくした。
ある朝、オーウェンが、道を渡りかけたとき、うしろからトラックが来た。
わたしは、立ったまま、止まって、と大きな声で言った。
オーウェンは、止まらなかった。
わたしは、走っていって、オーウェンの腕をつかんだ。
トラックは、すぐ横を通りすぎた。
オーウェンは、ふしぎそうに、わたしを見上げていた。
わたしの声が、聞こえていなかったのだと、そのとき、わかった。
毎朝、ひざをついて話していたから、それまで、だれも気づかなかったのだ。
わたし自身も、気づいていなかった。
その日の午後、わたしは、学校の先生に、そのことを話した。
ひと月して、オーウェンは、耳がほとんど聞こえていないとわかった。
生まれたときから、ずっとそうだったらしい。
オーウェンは、それから、補聴器をつけて、横断歩道に来るようになった。
補聴器をつけた最初の朝、オーウェンは、わたしの前で、目を丸くした。
車の音、鳥の声、子どもたちのさわぐ声。
それでも、話すときは、やっぱり、わたしの口を見ていた。
わたしは、それからも、毎朝、ひざをついた。
十一で、カーディフの学校へ移っていった。
第四章 オーウェンの話
今年の夏、この仕事をやめることにした。
ひざが、もう、歩道につくのに耐えられなくなった。
最後の日の午後、子どもたちを渡しおえると、一人の男の人が立っていた。
オーウェンだった。
三十六になっていた。
オーウェンは、わたしの前まで来ると、歩道に、片方のひざをついた。
目が、おなじ高さになった。
ぼく、あのころ、だれの言うことも、わからなかったんです。
大人の口は、いつも、ずっと上のほうで動いていた。
何か言っているのはわかるのに、何を言っているのかは、わからなかった。
でも、あなたは、毎朝、ひざをついて、ぼくの顔の前で話してくれた。
口の動きが、すぐ目の前にあった。
あなたの口だけは、読めたんです。
ボーレ、ダー、が、ぼくの覚えた最初の言葉でした。
音はわからなかったけれど、形は、わかったんです。
あの横断歩道で、ぼくは、口を読むことを覚えました。
あの朝、あなたが立ったまま叫んだ声だけは、届かなかった。
でも、あなたは、それで気づいてくれた。
オーウェンは、いま、カーディフで、耳の聞こえない子どもたちの先生をしているという。
子どもと話すときは、いつも、ひざをつきます。
ぼくの口が、子どもの目の前にあるように。
第五章 すり切れたひざ
その夜、台所で、一人で座っていた。
三十八年、ひざの人と呼ばれてきた。
まっすぐ立っていられない、のろい人。
それは、本当のことだと思う。
車を待たせたことも、一度や二度ではない。
でも、ひざをついたから、オーウェンは、わたしの口を読むことができた。
立っていたら、だれも、あの子の耳のことに気づかなかったかもしれない。
あの朝、立って叫んだ声が届かなかったから、わたしは、あの子の耳を知った。
立っていたら、わたしの口も、上のほうで動くだけの口だった。
夫のことを思い出した。
おまえは、ズボンのひざばかり、すり切らすな。
トムは、死ぬ前の冬、ベッドから起き上がれなくなった。
わたしは、毎晩、ベッドの横の床に、ひざをついて話した。
トムは、ある晩、わたしの顔を見て、言った。
ああ、おまえの顔が近いと、落ちつくな。
娘に電話をして、オーウェンの話をした。
娘は、しばらく黙っていた。
それから、言った。
お母さん、わたしも病院で、ベッドの横では、しゃがんで話すの。
お母さんのまねなのよ。
エピローグ
秋、オーウェンから、写真が一枚届いた。
カーディフの学校の、教室の写真だった。
床に、小さな子どもが一人座っていて、その前で、オーウェンが、ひざをついていた。
二人の顔は、おなじ高さにあった。
うしろの黒板に、大きな字で、ボーレ、ダー、と書いてあった。
オーウェンのズボンの、片方のひざが、白くすり切れていた。
わたしは、その写真を、台所の低い棚の上に立てた。
あなたの魂のテーマに気づく場所