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名前のないベンチ

名前は、入れなかった

名前のないベンチ

朗読で聴く

第一章 港の道

七十六になった。

スコットランドの東の海ぞい、ファイフ地方の小さな漁師町に住んでいる。

石の港をかこむように、細い道が一本、海に沿ってのびている。

その道に、木のベンチが三十台ならんでいる。

わたしは、町の大工として、五十年、そのベンチを作り、なおしてきた。

板は、スコットランドのカラマツを使う。

潮風に強く、雨にぬれても、なかなか腐らない。

座る板のふちは、かんなで丸くけずる。

子どもが座っても、とげが刺さらないように。

冬が来る前に、一台ずつ、亜麻の油をぬってまわる。

二十六のときに、父から仕事を継いだ。

妻のマーガレットは、四年前に死んだ。

娘は、エディンバラで働いている。

ベンチの半分には、真ちゅうのふだが一枚ずつ付いている。

だれそれの思い出に、と書いてある。

家族が亡くなった人をしのんで、町にお金を出して置いたベンチだ。

残りの半分は、町のベンチだ。

わたしが、町の頼みで作った、何も付いていないベンチだ。

父も大工だった。

父は、作ったものの裏に、かならず自分の名前の頭文字を彫った。

椅子の裏にも、戸の内側にも、小さく。

わたしは、一度も彫らなかった。

ベンチの裏にも、脚の内側にも、何も彫らなかった。

かんなをかけたあとの木は、そのままにしておいた。

第二章 名前を入れない男

父には、何度も言われた。

自分の仕事には、名前を入れろ。

入れない仕事は、だれの仕事でもなくなる。

わたしは、はい、と言って、彫らなかった。

なぜ彫らないのか、自分でもうまく言えなかった。

ただ、ベンチは座る人のもので、作った人のものではない気がした。

町の人には、欲のない男だと言われた。

名前を入れない男、だれの目にもとまらない男。

港の祭りで、町長がベンチを作った人にお礼を言おうとしたことがある。

町の役場には、ふだの付いたベンチの名前が、帳面に書き写してある。

どのベンチに、だれの名前が付いているか。

わたしのベンチのところは、町のベンチ、とだけ書いてある。

わたしは、その日、裏の作業場から出ていかなかった。

妻にも、笑われた。

あんたは、自分の影まで、だれかにゆずってしまいそうね。

わたしは、言い返さなかった。

言い返すほどの言葉を、持っていなかった。

わたしも、自分はそういう、何も残さない男だと思ってきた。

第三章 フィオナ

三十二年前の冬、ひどい嵐の夜に、漁船が一そう、戻らなかった。

乗っていた四人は、だれも見つからなかった。

その一人が、フィオナの父親だった。

フィオナは、九つだった。

春になると、ほかの三つの家は、思い出のふだの付いたベンチを置いた。

でも、フィオナの母親は、置かなかった。

見つかるまでは、死んだとは言わない。

そう言って、ふだを作らせなかったと聞いた。

それから、フィオナは、毎日、学校の帰りに、港のはしのベンチに座るようになった。

何も付いていない、わたしの作ったベンチだった。

海のほうを向いて、暗くなるまで、一人で座っていた。

雨の日も、風の強い日も、フードをかぶって座っていた。

帰るとき、フィオナは、浜で拾った小さな石を、一つ、ベンチの下に置いていった。

毎日、一つずつ。

板をなおすとき、わたしは、その石を動かさないように、ひざをついて作業した。

一年たつと、ベンチの下には、小さな石の山ができていた。

わたしは、そのベンチだけは、ほかより早く、板をなおした。

板がささくれると、すぐにけずって、油をぬった。

五年ほどして、町が、古いベンチをふだの付く新しいものに替えると決めた。

わたしは、港のはしのベンチだけは、まだ使えると言って、なおしつづけた。

フィオナは、十八で、アバディーンの学校へ行った。

それから、そのベンチには、ほかの人が座るようになった。

第四章 フィオナの話

今年の春、仕事をやめることにした。

手が、もう、かんなを思うように引けなくなった。

最後の日、港のはしのベンチの板を、一枚取りかえていた。

うしろに、だれかが立っていた。

フィオナだった。

四十一になっていた。

フィオナは、ベンチに座って、海のほうを見た。

このベンチを作ったのは、あなただったんですね。

あのころ、父には、お墓も、ふだも、何も無かった。

ほかの家のベンチには、名前が付いていて、わたしは、うらやましかった。

でも、このベンチには、何の名前も付いていなかった。

だから、わたしは、ここに父の名前を置いたんです。

声には出さずに、毎日、ここで、父の名前を呼んでいました。

石を一つずつ置いたのは、父が帰ってくるときの目印のつもりでした。

ここで待っている、ってわかるように。

ベンチの下の石が、いつまでもくずれなかったのを、覚えています。

だれかが、石をよけて、板をなおしてくれていたんですね。

名前が無かったから、父のベンチになれたんです。

だれかの名前が付いていたら、わたしは、ここに座れなかった。

フィオナは、いま、この町の救命艇に乗っているという。

母は、去年、亡くなりました。

最後まで、父のふだは作りませんでした。

でも、晩年は、ときどき一人で、このベンチに座りに来ていたそうです。

嵐の夜に、海へ出る仕事です。

わたしは、だれの名前も、海に置いてこないようにしています。

第五章 影までゆずる

その夜、作業場で、一人で座っていた。

五十年、名前を入れない男だと言われてきた。

欲のない、だれの目にもとまらない男。

それは、本当のことだと思う。

でも、名前を入れなかったから、フィオナは、あのベンチに父の名前を置くことができた。

わたしの名前は、あの子にとっては、じゃまになるところだった。

父の言葉を思い出した。

入れない仕事は、だれの仕事でもなくなる。

だれの仕事でもないから、だれのものにもなれたのだと思う。

父の作った椅子は、どれも、父の椅子のままだった。

わたしのベンチは、座った人の数だけ、ちがうだれかのベンチになっていたのかもしれない。

フィオナにとっては父親の、妻にとっては海を見る場所の。

妻のことも、思い出した。

あんたは、自分の影まで、だれかにゆずってしまいそうね。

妻は、死ぬ前の夏、あのベンチに座りたいと言った。

二人で並んで、海を見た。

ここ、いいベンチね、名前が無いのがいいわ、と言った。

娘に電話をすると、娘は、しばらく黙っていた。

それから、言った。

父さんの作った椅子、わたし、家を出るときに一つ持っていったの。

裏を見たら、何も彫ってなかった。

エピローグ

夏のはじめ、港のはしのベンチに、ふだが一枚付いていた。

真ちゅうではなく、木のふだだった。

何も、書いていなかった。

フィオナが付けたのだと、あとで聞いた。

だれでも、ここにだれかの名前を置けるように、と言ったそうだ。

ベンチの下には、小さな石が、また一つ置いてあった。

わたしは、ひざをついて、その石を動かさないように、板のぐあいを見た。

わたしは、そのふだをなでてから、となりに座って、海を見た。

ソウルミッション358

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