図書館のこたえ
名前は、入れなかった

朗読で聴く
第一章 しつもんばこ
六十六になった。
岩手の、川ぞいの小さな町の図書館で、四十二年働いてきた。
二十四で入って、この春でやめる。
司書の資格は、持っていない。
本を棚に戻し、返ってきた本をふき、破れたページをテープでなおす。
それが、わたしの仕事だった。
結婚はしなかった。
姉が、盛岡に住んでいる。
図書館は、古い木の二階建てで、冬は石油ストーブの音しかしない。
児童室の入口に、木の小さな箱が置いてある。
ふたに細い口があいていて、子どもが紙を入れられる。
しつもんばこ、と呼ばれている。
子どもが、聞きたいことを紙に書いて、入れていく。
空はどうして青いの、とか、カブトムシは何を食べるの、とか。
その答えを、カードに書いて、横の掲示板に張る。
答えは、その日のうちには書かない。
閉館してから、図鑑や事典を何冊も開いて、たしかめてから書く。
子どもが読めるように、漢字にはふりがなをふって、小さなカードにおさまるように短くする。
一枚に、一時間かかることもある。
三十年前から、それは、わたしの仕事になった。
答えのカードの最後には、図書館より、とだけ書いた。
自分の名前は、一度も書かなかった。
第二章 控えめすぎる人
館長には、何度も言われた。
名前を書きなさい。
だれが答えたか、はっきりさせるのが責任というものだ。
わたしは、はい、と答えて、次のカードにも、図書館より、と書いた。
同僚には、控えめすぎる、と笑われた。
手柄を、ぜんぶ、ほかの人にゆずってしまう。
だから、いつまでたっても、上に行けないのよ。
実際、わたしは、四十二年、ずっと一番下のままだった。
一度、県の新聞の人が、しつもんばこを取材に来たことがある。
答えを書いている人の写真を、のせたいという。
わたしは、ちょうど休みの日だということにして、その日、家にいた。
記事には、図書館の職員が答えています、とだけ書かれた。
館長は、記事を見て、ため息をついた。
姉にも、言われた。
あんたは、昔から、自分の名前を言うのが下手だね。
学校でも、手をあげたことが無かった。
答えを知っていても、だれかが言ってくれるのを待っていた。
自分の名前で何かを言うのが、どうしてもこわかった。
わたしの名前で言った言葉は、わたしひとりぶんの重さしか無い。
そんなものを、だれかに渡していいとは思えなかった。
そういう自分を、ずっと、情けないと思ってきた。
第三章 美咲ちゃん
二十八年前の秋、しつもんばこに、一枚の紙が入っていた。
ノートを破った紙に、えんぴつで、一字ずつ、ゆっくり書いてあった。
どうして、わたしは、みんなとおなじに、できないのですか。
名前は、書いていなかった。
でも、わたしには、だれが書いたのか、わかった。
毎日、閉館まで、児童室のすみに座っている女の子がいた。
美咲ちゃんといった。
十だった。
字を読むのが、ほかの子よりずっと遅かった。
学校で笑われるので、図書館で、一人で本を開いていたのだと思う。
わたしは、その夜、家に帰って、何枚もカードを書きなおした。
次の朝、一枚だけを、掲示板に張った。
ふりがなは、いつもより大きくふった。
おなじにできなくても、あなたは、まちがっていません。
図書館には、一冊ずつちがう本が、ならんでいます。
どの本も、ちゃんと、ここにいていい本です。
図書館より。
その日の夕方、カードは、掲示板から無くなっていた。
その前に、わたしは、本棚のかげから見ていた。
美咲ちゃんは、掲示板の前に、長いあいだ立っていた。
口を小さく動かして、一字ずつ、読んでいた。
読み終わると、もう一度、はじめから読んだ。
それから、まわりを見て、カードをはずして、本のあいだにはさんだ。
美咲ちゃんは、それからも、毎日、児童室のすみに座っていた。
中学に上がるまで、ずっと来ていた。
五年生の冬、しつもんばこに、もう一枚、おなじ字の紙が入っていた。
図書館の本は、どうして、こんなにたくさんあるのですか。
わたしは、答えのカードに書いた。
人は、一人ずつ、ちがうことが知りたいからです。
図書館より。
そのカードも、夕方には無くなっていた。
第四章 美咲さんの話
仕事をやめる日の夕方、児童室に、一人の女の人が来た。
美咲さんだった。
三十八になっていた。
手に、色のあせたカードを一枚、持っていた。
これを書いたのは、あなたですよね。
ずっと、知りたかったんです。
美咲さんは、カードを、わたしの手にのせた。
あのころ、わたしは、大人の言うことを、何も信じられませんでした。
先生は、がんばれば読めるようになると言いました。
母は、あなたは悪くないと言いました。
でも、それは、先生の意見で、母の意見でした。
わたしをなぐさめるために言っているんだと、思っていました。
このカードには、名前がありませんでした。
図書館より、とだけ書いてありました。
だから、図書館が、言ってくれたんだと思ったんです。
ここにある本が、ぜんぶで、そう言ってくれたんだと。
だれか一人の大人の言葉だったら、たぶん、信じられなかった。
このカードは、国語の教科書にはさんで、ずっと持っていました。
笑われた日は、トイレで、これを読みました。
二十のとき、わたしは、字を読むのが苦手な、そういう生まれつきだとわかりました。
努力が足りないのではなかった。
カードに書いてあったことは、本当だったんです。
美咲さんは、いま、宮城の小学校で、学校司書をしているという。
図書室に、しつもんばこを置いているんです。
答えには、図書室より、と書きます。
わたしも、名前は書きません。
第五章 図書館より
その夜、閉めた児童室で、一人で座っていた。
四十二年、控えめすぎると言われてきた。
手柄をゆずって、上に行けない人。
それは、本当のことだと思う。
でも、名前を書かなかったから、あの子は、カードを信じることができた。
わたしの名前は、あの子にとっては、ただの大人の一人の名前だった。
図書館より、と書いたとき、わたしは、四十二年ぶんの棚のうしろに、かくれていたのだと思う。
でも、かくれていたから、棚ぜんぶが、あの子に話しかけることができた。
館長の言葉を思い出した。
だれが答えたか、はっきりさせるのが責任というものだ。
あの人は、退職の日に、わたしにだけ小さく言った。
あのカードは、ぜんぶ、あなたの字だったね。
知っていたけれど、もう、言わなかったよ。
姉に電話をして、美咲さんの話をした。
姉は、しばらく黙っていた。
それから、言った。
あんた、名前を言うのは下手だけど、言葉を置いてくるのは上手だったんだね。
エピローグ
夏、美咲さんの学校の図書室を、たずねた。
入口に、木の小さな箱が置いてあった。
横の掲示板には、カードが何枚も張ってあった。
どのカードの最後にも、図書室より、と書いてあった。
一番下に、新しい紙が一枚、入れられたばかりだった。
わたしは、それを読まずに、そっと箱の前を通りすぎた。
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