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おなじ形のパン

輪郭は、ぶれなかった

おなじ形のパン

朗読で聴く

第一章 通りの端のパン屋

七十四になった。

ニュージーランドの南の島、オタゴ地方の小さな町に住んでいる。

羊の牧場にかこまれた、通りが一本だけの町だ。

その通りの端で、五十年、パン屋をやってきた。

二十四のときに、パン職人のイアンと結婚して、二人で店を開いた。

イアンは、九年前に死んだ。

息子は、クライストチャーチで働いている。

店で焼くのは、白い食パンだ。

四角い型には入れず、丸みのある山の形に焼く。

焼く前に、上に、ナイフで一本、まっすぐな切れ目を入れる。

焼き上がると、切れ目が開いて、山の上に、一本の線が走る。

五十年、毎朝、その形のパンを、四十本焼いてきた。

朝は、三時に起きる。

粉をはかり、水をはかり、塩とイーストをはかる。

こねる時間も、ふくらませる時間も、オーブンの温度も、五十年、変えていない。

切れ目を入れるナイフの角度も、変えていない。

イアンの父親も、パン職人だった。

その人が、最初に教えてくれた。

パンの形は、店の顔だ。

毎朝、おなじ顔で、客を待て。

第二章 退屈なパン

町に、大きなスーパーができた。

スーパーには、いろいろなパンが並んだ。

種の入ったパン、チーズをのせたパン、ハート形のパン。

わたしの店の客は、少しずつ減った。

息子は、帰ってくるたびに言った。

母さん、新しいパンも焼いたらどうだい。

形を変えてみるだけでも、客は戻ってくるよ。

わたしは、首を横にふった。

うちは、これしか焼かないの。

町の人には、退屈なパン屋だと言われた。

あのばあさんは、頑固だ。

五十年、おなじパンしか焼いていない。

イアンも、生きていたころ、ときどき笑って言った。

おまえは、一本の線も、ずらさないんだな。

わたしは、それがほめ言葉なのか、そうでないのか、わからなかった。

ほかのパンを焼いてみたいと思ったことは、一度も無かった。

思わないことが、つまらない人間のしるしのような気がしていた。

第三章 リリー

三十年前の春、毎朝、一人の母親が、小さな女の子をつれて来るようになった。

女の子は、六つで、リリーといった。

リリーは、何もしゃべらなかった。

店に入ると、まっすぐ棚の前に行って、パンの形を、じっと見た。

山の形と、上の一本の線を、指で空中になぞった。

それから、うなずいて、母親の手を引いた。

ある朝、オーブンの調子が悪くて、パンが、いつもより平たく焼けた。

切れ目も、ゆがんで開いた。

その朝、リリーは、棚の前で、声をあげて泣きだした。

床に座りこんで、耳をふさいで、いつまでも泣いていた。

母親は、すみません、すみません、と言って、リリーを抱いて帰っていった。

わたしは、その日、店を早く閉めた。

隣の町のパン屋に頼んで、オーブンを借りた。

夕方、いつもの形のパンを一本焼いて、リリーの家まで持っていった。

玄関で、母親が、パンを受け取って、少しのあいだ、何も言わなかった。

それから、小さな声で言った。

この子は、変わるものが、怖いんです。

毎日、何かが変わると、それだけで、世界がくずれるみたいに感じるんです。

このパンの形だけが、毎朝、おなじだったんです。

それから、わたしは、オーブンの手入れを、前よりもていねいにするようになった。

毎晩、店を閉めてから、扉のすきまと、温度の針を見た。

古い部品は、こわれる前に、取りかえた。

クリスマスの朝も、店を開けた。

この国のクリスマスは、夏のさかりだ。

朝から日ざしが強く、通りには、だれもいなかった。

町の店は、どこも閉まっていた。

イアンは、今日くらい休もうよ、と言った。

でも、八時になると、リリーと母親が、まぶしい通りを、まっすぐ歩いてきた。

リリーは、いつものように、棚の前で、山の形と一本の線を、指でなぞった。

母親は、パンを受け取りながら、ありがとう、と小さく言った。

イアンは、それきり、休もうとは言わなくなった。

リリーは、六年、毎朝、店に来た。

言葉は、少しずつ出るようになったが、わたしとは、ほとんど話さなかった。

十二の年に、家族と北の島へ引っ越していった。

最後の朝も、リリーは、パンの線をなぞって、何も言わずに帰っていった。

第四章 リリーの話

今年の春、店をたたむことにした。

手が、もう、生地をこねる力を持たなくなった。

最後の朝、パンを焼いていると、店の戸が開いた。

背の高い女の人が立っていた。

リリーだった。

三十六になっていた。

リリーは、棚の前に行って、パンの形を、じっと見た。

それから、指で、山の形と一本の線を、空中になぞった。

あのころ、世界は、毎日、形が変わって、どこにも足をつけるところが無かった。

朝起きると、全部が、昨日とちがって見えたんです。

でも、このパンの形だけは、毎朝、一度も変わらなかった。

あのパンの形だけは、怖くなかったんです。

山の上の一本の線を見ると、ああ、今日も大丈夫だ、と思えた。

学校では、毎日、ちがうことが起きました。

先生が休んだり、教室の机が動いていたり、知らない子が来たり。

そのたびに、頭の中がまっ白になりました。

でも、朝、このパンを見てから行けば、少しだけ、がまんできたんです。

オーブンがこわれた日のことも、覚えています。

夕方、あなたがいつもの形のパンを持ってきてくれたとき、わたし、やっと息ができました。

リリーは、いま、ウェリントンで、バスの時刻表を作る仕事をしているという。

毎日、おなじ時刻に、おなじ場所に、バスが来るようにする仕事です。

わたしみたいな人が、安心して乗れるように。

あのパンが、わたしの最初の時刻表でした。

第五章 一本の線

その夜、からっぽの店で、一人で座っていた。

五十年、退屈なパン屋だと言われてきた。

頑固で、おなじことしかできない。

それは、本当のことだと思う。

でも、形を変えなかったから、リリーは、毎朝、そこに足をつけることができた。

形がぶれていたら、あの子の目印には、ならなかった。

イアンの父親の言葉を思い出した。

パンの形は、店の顔だ。

毎朝、おなじ顔で、客を待て。

あの人は、町でいちばん無口な職人だった。

イアンのことも、思い出した。

おまえは、一本の線も、ずらさないんだな。

イアンは、死ぬ前の冬、病院のベッドで、わたしのパンを一切れ食べて、言った。

うん、いつもの味だ、これで安心して眠れる。

あのとき、わたしは、なぜ泣きそうになったのか、わからなかった。

いまは、少しわかる。

息子に電話をすると、息子は、しばらく黙っていた。

それから、言った。

母さんのパンの線、ぼくも、子どものころ、毎朝なぞってたよ。

エピローグ

夏のはじめ、町の若いパン職人が、店を継ぎたいと言ってきた。

わたしは、毎朝、店に通って、作り方を教えた。

粉の量も、水の量も、オーブンの温度も。

最後に、ナイフを渡して、言った。

この一本の線だけは、ずらさないで。

若い職人は、うなずいて、生地の上に、まっすぐ、ナイフを入れた。

ソウルミッション358

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