糸かがり
一つだけを、彫りつくした

朗読で聴く
第一章 製本所
七十になった。
東京の下町の、小さな製本所に住んでいる。
一階が仕事場で、二階が住まいだ。
夫は、五年前に死んだ。
店は、息子が継いでいる。
わたしは、二十五のときに嫁いできてから、この仕事場で、ひとつの仕事だけをしてきた。
糸かがりだ。
本は、紙を何枚か重ねて二つに折った束を、いくつも合わせて作る。
その束の背に、針で穴をあけ、糸を通して、一つずつ、かがってつなぐ。
それが、糸かがりだ。
表紙をつけるのも、背を丸めるのも、金の文字を押すのも、ほかの人の仕事だった。
わたしは、四十五年、針と糸だけを持ってきた。
朝は八時に台の前に座り、昼にご飯を食べ、また夕方まで、かがる。
一冊の背を、上から下まで、同じ強さで、すきまなく。
針を入れる場所も、糸を引く力も、四十五年、少しも変えなかった。
糸かがりを教えてくれたのは、仕事場にいた、いちばん年寄りの職人だった。
その人は、ほかの仕事はしないで、一日じゅう、糸だけをかがっていた。
ほかの職人が、あの人は糸しかできない、と笑っていた。
わたしが嫁いだ年の冬、その人は、針を置いて、わたしに言った。
糸は、ひっぱりすぎると紙が切れる。ゆるめると本がほどける。
そのあいだを、手がおぼえるまで、かがりなさい。
それから半年、わたしは、ほかのことは何もさせてもらえなかった。
その人がやめてから、仕事場で糸をかがるのは、わたし一人になった。
第二章 ほかは何もできない
嫁いだころ、仕事場には、職人が五人いた。
みんな、何でもできた。
背を丸めるのも、表紙を貼るのも、箔を押すのも。
わたしだけが、糸かがりしかできなかった。
姑には、よく言われた。
あんたは、ほかのことを覚える気がないのかい。
夫にも、言われたことがある。
おまえは、ひとつのことしか見えないんだな。
機械が入ってきたのは、三十年ほど前だった。
機械は、わたしの何倍もの速さで、背を糊で固めていった。
糊で固めた本は、安くて、早くできた。
取引先の多くは、そちらを選んだ。
わたしの糸かがりは、図鑑や、学校の辞書や、図書館の本など、わずかな注文だけになった。
息子には、母さん、もう機械にまかせたら、と言われた。
わたしは、うん、と言いながら、仕事場から離れなかった。
親戚の集まりでは、手先の器用な人ね、と言われることがあった。
でも、ボタンひとつ、うまくつけられなかった。
料理も、掃除も、人並みにはできなかった。
家のことは、たいてい、姑と夫がやってくれた。
わたしの手は、針と糸を持つときだけ、ちゃんと動いた。
わたしは、自分を、ひとつのことしかできない、不器用な女だと思っていた。
時代に置いていかれた、古い手だと。
第三章 分厚い図鑑
三十二年前の春、近所の小児科の先生が、店に来た。
入院している子どもたちのために、図鑑を何冊か、作りなおしてほしいという。
病院の図鑑は、何度もめくられて、背が割れ、ページがばらばらになっていた。
わたしは、古い図鑑の背をほどき、一枚ずつ、かがりなおした。
いつもより細い糸を、いつもより多く通した。
一冊に、三日かかった。
それから、ときどき、病院から図鑑が戻ってきた。
戻ってくるたびに、わたしは、ゆるんだところを、かがりなおした。
ある日、先生が、一冊の図鑑を持ってきた。
虫の図鑑だった。
この本は、ひとりの子が、ほとんど毎日めくっているんですよ。
八つの、和也くんという子だという。
腎臓の病気で、一年のほとんどを、病院のベッドで過ごしている。
図鑑の背は、少しもゆるんでいなかった。
でも、ページの角は、指のあとで、丸くなっていた。
わたしは、その本を、いつもよりていねいに、かがりなおした。
一度だけ、その子が、お母さんに連れられて、店に来たことがある。
外出の許しが、一日だけ出たのだという。
やせた、色の白い子だった。
和也くんは、仕事場の台の前に立って、わたしの手元をじっと見ていた。
どうして、この本は、ほどけないの。
わたしは、針と糸を見せて、答えた。
一枚ずつ、すきまなく、つないでいるからよ。
和也くんは、うなずいて、わたしの手を、長いこと見ていた。
帰りぎわに、小さな声で、また来てもいい、と聞いた。
でも、それから和也くんが店に来ることは、なかった。
第四章 和也さんの話
この春、店に、一人の男の人が来た。
四十になった、和也くんだった。
いまは、子ども向けの図鑑を作る仕事をしているという。
はじめて自分で作った図鑑を、糸かがりで綴じてほしいのだと言った。
和也さんは、かばんから、古い本を一冊、取り出した。
あの虫の図鑑だった。
背の糸が、まだ、しっかりしていた。
病院の先生が亡くなったときに、ご家族から、いただいたんです。
ぼく、あのころ、毎日、この本を読んでいました。
外に出られないから、この本の中の虫だけが、ぼくの外だったんです。
何百回めくっても、ばらばらにならなかった。
友だちが退院していくときも、ぼくは、この本をめくっていました。
だから、ぼくは、こわれない本を作りたいと思ったんです。
和也さんは、少し笑った。
機械で綴じた本は、病院では、すぐにばらばらになるんです。
ひと月も、もたない。
だから、どうしても、ここでお願いしたくて。
和也さんは、もう一冊、新しい図鑑の見本を、机に置いた。
表紙に、小さな虫の絵が、一匹だけ描いてあった。
あの病院の図鑑に、いちばんよく出てきた虫です。
わたしは、何も言えなかった。
窓の外を、春の風が、紙のくずを運んでいった。
第五章 針と糸
その夜、わたしは、仕事場の台の前に、長いあいだ座っていた。
四十五年、わたしは、自分を、ひとつのことしかできない、不器用な女だと思ってきた。
時代に置いていかれた、古い手だと。
でも、そうではなかったのかもしれない。
ほかのことは、何も覚えなかった。
ただ、ひとつの仕事だけを、上から下まで、すきまなく、やりつくした。
だから、何百回めくっても、ばらばらにならない本ができた。
何でもできる手だったら、ここまで、ひとつの背に、力を通すことはなかっただろう。
夫のことを、思い出した。
おまえは、ひとつのことしか見えないんだな。
そう言っていた夫が、病院のベッドで、わたしのかがった古い辞書を、胸にのせていた。
この辞書は、四十年、一枚も落ちなかったな。
夫は、そう言って、表紙をなでた。
あのときは、何も答えられなかった。
いちばん年寄りの職人の言葉も、思い出した。
そのあいだを、手がおぼえるまで、かがりなさい。
あの人も、糸しかできないと笑われながら、ひとつの背を、彫るようにかがっていたのだ。
エピローグ
次の朝、わたしは、いつものように八時に台の前に座った。
和也さんの図鑑の束が、目の前に積んであった。
針に糸を通した。
一冊目の背に、上から、針を入れた。
四十五年、変えなかった強さで、糸を引いた。
窓から入る光が、白い糸の上に、まっすぐ落ちていた。
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