坂の道
踏み固められていた

朗読で聴く
第一章 坂の町
七十になった。
長崎の、海の見える坂の町に住んでいる。
家は、細い石段を上った、山のなかほどにある。
妻の久子と二人で暮らしている。
娘が一人、福岡にいる。
わたしは、二十二のときから、この町で郵便を配ってきた。
六十四でやめるまで、四十二年。
この町は、坂と石段ばかりで、車の通れない道が多い。
郵便局の同僚は、みんなバイクで回り、通れないところだけ歩いた。
わたしは、バイクに乗らなかった。
四十二年、毎日、同じ道を、歩いて配った。
朝の八時に局を出て、海ぞいの通りから、山のほうへ上っていく。
石段を上り、畑のあいだの細い土の道を抜け、また石段を上る。
山の上の診療所に着くのが、ちょうど昼の十二時。
そこから、反対側の坂を下りて、夕方、局に戻る。
道は、いつも同じだった。
同じところで曲がり、同じところで休み、同じ石に足をのせた。
雨の日も、台風の前の日も、雪のめずらしく積もった朝も、道は変えなかった。
雨の日は、かばんにビニールをかけ、長靴をはいて、同じ石段を上った。
ぬれた石段は、すべる。だから、どの石も、いつも決まったところに、足を置いた。
そうすると、足が、勝手に次の石をさがしてくれた。
第二章 古い男
局の若い人たちには、よく言われた。
バイクに乗れば、半分の時間で終わるのに。
あの人は、古いからなあ。
局長にも、言われたことがある。
もう少し、効率よく回れないかね。
近道も、あるだろう。
わたしは、はい、と言いながら、同じ道を歩いた。
近道は、知っていた。
でも、近道は、石がごろごろして、雨の日はすべった。
わたしの道は、遠回りだったが、四十二年、毎日歩いたので、土がかたく、平らになっていた。
石は、歩くたびに、少しずつ、わきへよけた。
草は、わたしの足の幅だけ、生えなくなった。
妻にも、笑われた。
あなたは、毎日、同じ道しか歩けない人ね。
旅行に行っても、同じ店でしか、ごはんを食べない。
わたしは、自分を、同じことしかできない、古い男だと思っていた。
気のきいたことも、新しいことも、何もできない、と。
やめるときも、送別会で、局長が言った。
毎日、同じ道を、ごくろうさまでした。
みんなが、少し笑った。
一度、若い同僚が、雨の日に近道をバイクで下りて、石にのり上げて転んだことがある。
けがは軽かったが、郵便が何通か、雨にぬれた。
そのときも、わたしは、自分の道のことを、だれにも言わなかった。
言うほどのことでは、ないと思っていた。
第三章 ばあちゃんと女の子
二十六年前の春、山のなかほどの家に、女の子が引っ越してきた。
八つの、目の大きい子だった。
美穂ちゃん、という子だった。
両親は、町で店をやっていて、帰りがおそかった。
美穂ちゃんは、おばあさんと二人で、昼を過ごしていた。
おばあさんは、目がだいぶ悪くなっていた。
ある日、診療所の前で、二人に会った。
おばあさんは、美穂ちゃんの肩に手をのせて、ゆっくり歩いていた。
どこから来たのか聞くと、美穂ちゃんが、わたしの来た道を指さした。
郵便屋さんの道を、来たの。
おばあちゃん、この道なら、石につまずかないから。
それから、毎週の水曜日、二人は、わたしの道を通って、診療所へ行った。
ときどき、わたしは、途中で二人に追いついた。
おばあさんは、足の裏で、道をさぐるように歩いていた。
美穂ちゃんが、ここで曲がるの、と言うと、おばあさんは、そこで曲がった。
わたしの曲がるところと、同じだった。
夏の暑い日、おばあさんが、診療所の前で、わたしに冷たい麦茶をくれたことがある。
郵便屋さんの道は、歩きやすいですねえ。
わたしは、ただの土の道ですよ、と答えた。
おばあさんは、首をふって、足の裏で、地面を軽くたたいた。
いいえ、足が、覚えている道ですよ。
三年たって、美穂ちゃんの家は、町の中に引っ越していった。
それからのことは、知らなかった。
第四章 美穂さんの話
この春、町の役所から、知らせが来た。
山のなかほどの土の道を、コンクリートで固めることになったという。
わたしは、少しさびしい気がした。
五月のある日、山の上の診療所に、ひざの薬をもらいに行った。
診察室にいたのは、三十四になった、美穂ちゃんだった。
この春から、ここで医者をしているのだという。
美穂さんは、わたしの顔を見て、すぐに気づいた。
郵便屋さん、ですよね。
美穂さんは、窓の外の、わたしの道を見ながら言った。
あのころ、ばあちゃん、ほとんど目が見えなかったんです。
ほかの道は、石があって、こわがって歩けなかった。
でも、郵便屋さんの道は、足の下が平らで、かたかった。
毎日、同じところを歩く人がいたから、石が一つもなかったんです。
おじさんの道なら、ばあちゃんが一人で歩けたんです。
わたしが学校に行ったあとも、ばあちゃん、一人で、診療所まで来ていたそうです。
美穂さんは、少し笑った。
ばあちゃんが、この診療所の先生にお世話になったから、わたし、医者になったんです。
あの道がなかったら、ここに来ることも、なかったかもしれない。
ばあちゃんは、わたしが十五のときに亡くなりました。
最後まで、あの道を通って、一人で診療所に来ていたそうです。
わたしは、何も言えなかった。
窓の外で、わたしの道が、昼の光を受けて、白く光っていた。
第五章 同じ道
その夜、わたしは、縁側に、長いあいだ座っていた。
四十二年、わたしは、自分を、同じことしかできない、古い男だと思ってきた。
毎日、同じ道しか、歩けない、と。
でも、そうではなかったのかもしれない。
同じところを、毎日、歩いた。
だから、土がかたくなり、石がよけ、平らな道ができた。
目の見えない人の足の裏にも、わかる道が。
近道を、日によって変えていたら、どの道も、石の残る、ただの山の道だっただろう。
おばあさんの言葉を、思い出した。
足が、覚えている道ですよ。
覚えていたのは、わたしの足だけではなかったのだ。
あの道を通った、だれかの足も、同じように覚えていた。
妻が、お茶を持ってきて、となりに座った。
わたしが美穂さんの話をすると、妻は、しばらくだまっていた。
それから、言った。
わたしも、目が悪くなったら、あなたの道を歩くわ。
あなたの道なら、目をつぶっても、歩けそうだもの。
妻は、そう言って、少し笑った。
四十二年、同じ店でしかごはんを食べないと笑っていた妻が、そう言った。
わたしは、湯のみを両手で持って、暗い坂を見下ろした。
エピローグ
六月、わたしは、役所に手紙を書いた。
あの道は、コンクリートにしないで、このまま残してほしい。
足の裏で、さぐって歩く人がいるから、と。
美穂さんも、診療所から、同じ手紙を出してくれた。
夏のおわり、役所から、返事が来た。
道は、土のまま、残すことになったという。
次の朝、わたしは、妻と二人で、あの道を歩いた。
同じところで曲がり、同じところで休み、同じ石に足をのせた。
足の下が、かたかった。
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