雪の道
踏み固められていた

朗読で聴く
第一章 山あいの家
七十六になった。
山形の、山あいの小さな集落に住んでいる。
冬になると、雪が、大人の背たけほども積もる。
夫は、十二年前に死んだ。
息子が一人、仙台で働いている。
わたしの家は、集落のいちばん高いところにある。
そこから、坂を下って、川ぞいのバス停まで、歩いて十五分。
朝のバスは、一日に三本しかない。
わたしは、三十六の冬から、毎朝、そのバス停まで歩いてきた。
雪の日は、暗いうちに起きて、かんじきをはく。
玄関から一歩ずつ、雪を踏んで、坂を下りる。
バス停まで行ったら、また、同じところを踏んで、上ってくる。
それを、毎朝、二回、くり返す。
四十年になる。
踏んだところは、かたくなって、少し低くなる。
次の朝、また雪が積もっても、その下には、かたい道が残っている。
三日も続ければ、長靴でも歩けるくらいの、細い道ができる。
足の運び方は、母に教わった。
かかとから下ろさない。つま先で、そっと押す。
同じ幅で、同じところに、足を置く。
そうすると、雪は、横に逃げずに、下にしまっていく。
母も、この坂で、毎朝、そうしていた。
第二章 何にもならない
はじめは、夫の弁当を届けるためだった。
夫は、町の工場に、朝いちばんのバスで通っていた。
夫が雪の中を転ばないように、先に歩いて、道をつけておいた。
夫が死んでからも、わたしは、やめなかった。
やめる理由が、思いつかなかった。
集落の人には、よく言われた。
おばあちゃん、毎朝、何してるの。
バスに乗るわけでもないのに。
春になったら、全部とけて、何にもならないのに。
隣の家の奥さんには、笑われた。
あんたは、同じことばっかりしてるねえ。
息子にも、電話で言われたことがある。
母さん、もう年なんだから、雪の中を歩くのはやめてくれ。
転んだら、だれも見つけてくれないよ。
わたしは、自分を、同じことばかりくり返す、つまらない女だと思っていた。
何も残らないことに、毎朝、時間を使っている、と。
春になると、雪がとけて、道は消えた。
坂には、ただの土と草だけが残った。
わたしは、それを見るたびに、少しさびしくなった。
一度だけ、ひどい風邪をひいて、三日、寝こんだ冬がある。
四日目の朝、坂に出てみると、道は、すっかり雪にうまっていた。
どこを踏んでも、ひざまで沈んだ。
三日休めば、道は消える。
わたしは、ため息をついて、また一歩目から踏みはじめた。
第三章 健ちゃん
三十七年前の冬、集落のいちばん下の家に、親子が越してきた。
お母さんと、八つの男の子だった。
健ちゃん、という子だった。
引っ越しの日、健ちゃんは、坂の下から、わたしの家のほうを、じっと見上げていた。
あとで聞くと、坂の上に、だれが住んでいるのか、知りたかったのだという。
町から来た子には、雪の集落は、さびしく見えたのだろう。
お母さんは、体が弱く、冬のあいだ、ほとんど寝ていた。
健ちゃんは、一人で、朝のバスに乗って、町の小学校へ、かよっていた。
はじめての雪の朝、健ちゃんは、家の前で、立ちつくしていた。
雪が、腰まであった。
わたしは、坂の上から下りてきて、健ちゃんの前に立った。
おばちゃんの踏んだところを、歩いておいで。
健ちゃんは、少し考えてから、わたしの足あとの上に、小さな足をのせた。
わたしは、健ちゃんの家の前から、バス停まで、もう一本、道をつけた。
それから、毎朝、二本、踏むようになった。
健ちゃんは、わたしの道を通って、バス停まで歩いた。
ふぶきの朝も、道は、雪の下に残っていた。
健ちゃんは、足の裏で、かたいところをさがしながら歩いた。
ある朝、ふぶきの中で、健ちゃんが道をはずれて、ひざまで雪に沈んだ。
わたしは、うしろから声をかけた。
足の下が、かたいところに、戻っておいで。
健ちゃんは、足をそっと動かして、かたいところを見つけた。
それからは、一度も、道をはずれなかった。
六年たって、健ちゃんは、町の中学校の寮に入った。
最後の朝、健ちゃんは、バス停で、わたしに頭を下げた。
おばちゃん、ありがとう。
バスが行ってしまってから、わたしは、一人で坂を上った。
次の冬から、また、一本だけ踏むようになった。
健ちゃんの家の前の道は、その冬のうちに、雪の下に消えた。
わたしは、ときどき、坂の途中で立ち止まって、消えた道のあたりを見た。
第四章 健一さんの話
この冬のはじめ、集落の寄り合いに、見なれない男の人が来た。
四十五になった、健ちゃんだった。
いまは、町の役場で、除雪車を動かしているという。
この春から、この集落の道も、受け持つことになったのだと言った。
寄り合いが終わって、健一さんは、わたしのところに来た。
あのころ、ぼく、毎朝、こわかったんです。
母は寝ていて、だれも、見送ってくれなかった。
でも、おばちゃんの道を踏むと、足の下が、かたかった。
だれかが、先に歩いてくれたんだって、足でわかったんです。
ふぶきで前が見えない朝も、足の下のかたいところをたどれば、バス停に着いた。
踏み固めた道があったから、迷わずに、学校に行けたんです。
健一さんは、少し笑った。
除雪車の仕事を選んだのも、そのせいかもしれません。
ぼくも、だれかの朝の道を、先につけておきたかった。
この冬から、おばちゃんの家の前を、いちばん先に、かきます。
それから、健一さんは、少し声を落として言った。
母は、ぼくが高校のときに亡くなりました。
最後のころ、母はよく、坂の上のおばちゃんの道の話をしていました。
あの道があったから、寝ていても、安心してあんたを送り出せたって。
わたしは、何も言えなかった。
窓の外で、雪が、静かにふりはじめていた。
第五章 足の下
その夜、わたしは、こたつに入ったまま、長いあいだ起きていた。
四十年、わたしは、自分を、同じことばかりくり返す女だと思ってきた。
春になれば消える道を、毎朝、つけていた、と。
でも、そうではなかったのかもしれない。
同じところを、毎朝、踏んだ。
だから、雪の下に、かたい道が残った。
見えなくても、歩く人の足の裏には、わかった。
毎朝、ちがうところを踏んでいたら、どの朝も、ただのやわらかい雪だっただろう。
夫のことを、思い出した。
夫は、毎朝、わたしのつけた道を下りながら、何も言わなかった。
でも、死ぬ前の冬、病院のベッドで、一度だけ言った。
おまえの道は、足の裏が、あったかかったな。
あのときは、何のことか、わからなかった。
春になれば、道は消える。
でも、その冬のあいだ、だれかの足の下には、ちゃんとあった。
それで、よかったのだと思った。
エピローグ
次の朝、まだ暗いうちに、外で、低いエンジンの音がした。
窓から見ると、除雪車の明かりが、坂を上ってくるところだった。
除雪車は、わたしの家の前の雪を、いちばん先に、かいていった。
わたしは、それでも、かんじきをはいた。
かかれたあとの道の上に、一歩ずつ、足をのせた。
足の下が、かたかった。
バス停まで下りて、また、同じところを上ってきた。
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