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あいだの坂

境目に、立っていた

あいだの坂

朗読で聴く

第一章 二つの家

七十になった。

群馬の、山すその小さな町に住んでいる。

夫は、八年前に死んだ。

娘が一人いて、前橋で暮らしている。

わたしには、兄と妹がいる。

兄は七十四、妹は六十六になる。

兄は、坂の下の、父の残した家に住んでいる。

妹は、坂の上の、自分で建てた家に住んでいる。

わたしの家は、その坂の、ちょうど真ん中にある。

兄と妹は、三十年、口をきいていない。

三十年前、父が死んだとき、田んぼと家のことで、二人はひどくもめた。

兄は、長男が家を継ぐのが当たり前だと言った。

妹は、父の世話をしたのは自分だと言った。

どちらの言うことにも、少しずつ、本当のことがあった。

わたしは、どちらの味方も、しなかった。

家は、農家だった。

父は、坂の下の田んぼで米を作り、坂の上の畑で野菜を作った。

子どもの三人は、毎日、坂を上ったり下りたりして、父の手伝いをした。

兄は田んぼが好きで、妹は畑が好きだった。

わたしは、田んぼと畑のあいだを、水筒やおにぎりを持って、行ったり来たりした。

あのころから、わたしは、真ん中にいる子だった。

第二章 どっちつかず

兄には、よく言われた。

おまえは、どっちの味方なんだ。

妹にも、言われた。

姉さんは、いつも、どっちつかずね。

親戚の集まりでも、わたしは、いつも、真ん中の席に座らされた。

どちらの話にも、うなずくだけで、何も言わなかった。

夫には、笑われたことがある。

おまえは、坂の真ん中に住んでるから、どっちにも転がれないんだな。

わたしは、自分を、はっきりしない、半端な人間だと思っていた。

どちらの側の仲間にもなれない、意気地のない女なのだと。

娘が結婚したときも、披露宴の席順で、ずいぶん困った。

兄の家の者と、妹の家の者を、同じテーブルに座らせるわけにいかなかった。

わたしは、二つのテーブルのあいだに、自分の席を置いた。

どちらのテーブルにも、ビールをつぎに回った。

帰りの車の中で、娘に、お母さん、大変だったね、と言われた。

わたしは、いつものことよ、と笑った。

本当は、帰り道、少しだけ泣いた。

それでも、わたしは、毎週、二つの家に通った。

月曜日は、坂を下りて、兄の家へ行った。

兄の好きな、きんぴらごぼうを持っていった。

木曜日は、坂を上って、妹の家へ行った。

妹の好きな、白菜の漬け物を持っていった。

兄の家では、妹の名前を出さなかった。

妹の家でも、兄の名前を出さなかった。

ただ、畑のことや、天気のことや、町のうわさを話して、帰ってきた。

兄は、わたしが来ると、縁側に座布団を出した。

黙ってお茶をいれ、田んぼの水の話をした。

妹は、わたしが来ると、台所のいすをすすめた。

自分で焼いたまんじゅうを出して、孫の話をした。

どちらの家でも、帰りぎわに、同じことを聞かれた。

坂、すべらないように、気をつけてね。

冬の坂は、凍って、よくすべるのだ。

第三章 坂の真ん中

母は、父が死んでから、三十年、わたしの家で暮らした。

兄の家にも、妹の家にも、行かなかった。

坂の真ん中なら、どちらにも近いから、と母は言った。

母は、兄が畑に出る姿を、わたしの家の窓から、毎朝見ていた。

ときどき、母は、わたしに言った。

あの子たちは、どっちも、父さんに似てがんこだから。

でも、どっちも、本当は、さびしがりなのよ。

わたしは、そうね、とだけ答えた。

母は、二人に会いに行こうとはしなかった。

ただ、毎日、窓の前に座っていた。

夕方には、妹が洗濯物を取りこむ姿を、窓から見上げていた。

ある年の冬、兄が、風邪をこじらせて、寝こんだ。

わたしは、月曜日に、おかゆを持って、坂を下りた。

木曜日、妹の家に行くと、妹が、何気ないふうに聞いた。

坂の下、最近、煙突の煙が出てないけど。

わたしは、兄さん、風邪で寝てるのよ、とだけ言った。

妹は、何も言わなかった。

次の月曜日、兄の家の玄関に、白菜の漬け物の袋が、置いてあった。

だれが置いたのか、兄は知らなかった。

わたしは、何も言わなかった。

そういうことが、三十年のあいだに、何度かあった。

妹の家の雨どいが壊れたとき、いつのまにか直っていたこともある。

直したのがだれか、妹は、知らなかったはずだ。

兄は、そういうことが得意だった。

若いころ、妹の自転車がこわれると、いつも黙って直していた。

第四章 姪の話

この春、母が、九十四で死んだ。

葬式は、わたしの家で出した。

兄も、妹も、来た。

二人は、三十年ぶりに、同じ部屋に座った。

葬式のあと、兄の娘の千春が、わたしの台所に来た。

四十になる、町役場に勤める子だ。

千春は、湯のみを洗いながら、言った。

叔母さん、わたし、ずっと思ってたの。

うちの父と、上の叔母さんが、三十年、切れずにすんだのは、叔母さんがいたからだって。

叔母さんが、毎週、坂を上ったり下りたりしてたでしょう。

父は、叔母さんが来た日の夜、いつも、坂の上の明かりを見てたのよ。

何も言わないけど、叔母さんの顔を見ると、向こうも元気なんだって、わかったみたい。

どっちの味方もしないで、あいだに立っていてくれたから、道が、なくならなかったんだと思う。

あいだに、いてくれたから。

千春は、少し笑った。

わたしね、役場で、町の人どうしのもめごとの相談を受けてるの。

どっちの言い分も、最後まで聞くようにしてる。

叔母さんのやり方で。

わたしは、何も言えなかった。

居間のほうから、兄と妹の、低い話し声が聞こえていた。

三十年ぶりに聞く、二人の声だった。

第五章 どっちつかずの坂

その夜、わたしは、一人で、台所のいすに座っていた。

三十年、わたしは、自分を、どっちつかずの、半端な人間だと思ってきた。

どちらの側の仲間にもなれない、意気地のない女だと。

でも、そうではなかったのかもしれない。

どちらの側にも入らなかった。

坂の真ん中に、立っていた。

だから、上にも下にも、毎週、歩いていけた。

どちらかの味方になっていたら、もう片方の家への道は、とうに草に埋もれていただろう。

夫の言葉を、思い出した。

おまえは、坂の真ん中に住んでるから、どっちにも転がれないんだな。

あの人は、そのあとに、こう続けたのだった。

でも、真ん中にいるから、どっちにも行けるんだ。

あのときは、からかわれているのだと思った。

母のことも、思い出した。

坂の真ん中なら、どちらにも近いから。

母も、わたしと同じことを、していたのかもしれない。

エピローグ

母の法事の日、兄が、坂を上っていった。

妹の家の玄関の前で、しばらく立っていた。

それから、戸をたたいた。

わたしは、真ん中の家の窓から、それを見ていた。

夕方、二人が、そろって、わたしの家に下りてきた。

兄は、白菜の漬け物の袋を持っていた。

妹は、きんぴらごぼうの入った器を持っていた。

姉さんのところで、三人で食べようと思って。

わたしは、台所に立って、ご飯をよそった。

坂の真ん中の家の食卓に、三十年ぶりに、三人分の茶わんが並んだ。

ソウルミッション358

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