足踏みミシン
手入れされて、使われていた

朗読で聴く
第一章 母のミシン
七十になった。
愛媛の、海ぞいの小さな町に住んでいる。
家の奥の六畳の部屋に、古い足踏みミシンが一台ある。
母が、嫁入りのときに持ってきたものだ。
わたしは、二十のときから、このミシンで、内職の縫い物をしてきた。
五十年になる。
夫は、六年前に死んだ。
息子が一人、松山で暮らしている。
足踏みミシンは、電気を使わない。
足もとの板を踏むと、大きな車輪が回り、針が上下に動く。
台は木で、鉄の脚には、つたの模様が入っている。
毎週日曜日の朝、わたしは、このミシンに油をさした。
針の通るところ、車輪の軸、ペダルのつなぎ目。
小さな油さしで、一滴ずつ。
それから、やわらかい布で、ほこりをふいた。
母が生きていたころから、ずっと、そうしてきた。
内職の仕事は、町の洋服屋から回ってきた。
ズボンのすそ上げ、スカートの丈つめ、学生服のボタンつけ。
一枚、いくら、という仕事だった。
朝、家の用事をすませてから、昼すぎまで、ミシンを踏んだ。
足を動かしているあいだ、車輪の音だけが、六畳の部屋に響いた。
夏は汗をかき、冬は、足もとに湯たんぽを置いて踏んだ。
ベルトが切れたときは、自分で、古い革を切って、つなぎなおした。
針が曲がれば、取りかえて、曲がった針は、缶にためておいた。
第二章 けちな人
近所の人には、よく言われた。
まだ、あんな古いミシンを使ってるの。
電動のを買えばいいのに。
息子も、帰ってくるたびに、言った。
母さん、新しいのを買ってやるよ。もう、ばあちゃんのミシンは、引退させたら。
わたしは、まだ動くから、と答えた。
息子は、肩をすくめて、それ以上は言わなかった。
近所では、あの人は、けちだから、と言われていた。
たしかに、わたしは、物を買いかえるのが、きらいだった。
鍋も、やかんも、包丁も、直しながら使った。
夫の背広の肘に、布を当てて、十年着せた。
夏祭りの浴衣も、毎年、ほどいて洗って、縫いなおして着た。
近所の奥さんたちが、新しい柄の浴衣で並んでいるとき、わたしだけ、色のさめた紺の浴衣だった。
自分でも、貧乏くさい女だと思っていた。
新しい物を楽しむことを知らない、つまらない人間なのだと。
第三章 停電の夜
二十八年前の秋、大きな台風が、町を通った。
電柱が倒れ、町じゅうが、一週間、停電した。
家を流された人たちは、となりの中学校の体育館に避難した。
台風が過ぎた週の土曜日には、町の会社の、就職の面接が予定されていた。
金曜の夜、体育館から、一人の女の子が、わたしの家に来た。
高校三年生の、沙織ちゃんという子だった。
家が水につかって、制服のスカートが、大きく裂けてしまったという。
明日、就職の面接なんです。替えの制服が、ありません。
町の洋服屋は、どこも閉まっていた。
電気がないので、電動のミシンは、どこの家でも動かなかった。
わたしは、ろうそくに火をつけて、六畳の部屋に沙織ちゃんを入れた。
ミシンのふたを開け、いつものように、足で板を踏んだ。
車輪が、なめらかに回った。
ろうそくの明かりの中で、わたしは、スカートの裂け目を、裏から当て布をして縫った。
沙織ちゃんは、そのあいだ、ずっと、ミシンの車輪を見ていた。
電気、ないのに、動くんですね。
油を、毎週さしてるからね。
縫い終わるころには、夜中の一時を過ぎていた。
沙織ちゃんは、スカートを抱えて、何度も頭を下げて帰っていった。
それから、停電のあいだ、体育館の人たちが、次々に、縫い物を持ってきた。
子どもの体操服、お年寄りのズボン、破れた布団の袋。
わたしは、一週間、ろうそくの明かりで、ミシンを踏みつづけた。
足が棒のようになり、夜は、ふくらはぎをもみながら眠った。
ろうそくが足りなくなると、近所の人が、仏壇のろうそくを持ってきてくれた。
七日目の夕方、電気が戻った。
町じゅうの家に、明かりがついた。
次の日から、だれも、縫い物を持ってこなくなった。
わたしは、いつものように、日曜日の朝、ミシンに油をさした。
第四章 沙織さんの話
この春、息子が、わたしを松山に呼びたいと言いだした。
古い家を片づけることになり、ミシンも、処分するかどうか、迷っていた。
片づけの日、一人の女の人が、家を訪ねてきた。
四十六になった、沙織ちゃんだった。
いまは、町の役場で、災害のときの準備をする仕事をしているという。
沙織さんは、六畳の部屋に入って、ミシンの前に座った。
あの夜のこと、ずっと覚えてるんです。
町じゅう真っ暗で、何も動かなかった。
新しい物は、全部、電気がないと止まってしまった。
でも、このミシンだけが、ろうそくの明かりの中で、動いていた。
あの面接、受かったんです。あのスカートで。
沙織さんは、ミシンの車輪に、そっと手を置いた。
わたし、いまの仕事で、町じゅうの古い道具を、調べて回ってるんです。
手で動くポンプ、炭のこんろ、足踏みミシン。
どれも、ちゃんと手入れされている家のは、いまでも動くんです。
手入れされて、使われていた。だから、あの夜、動いたんです。
電気がなくても、動いたんです。
このミシン、町の公民館に、置かせてもらえませんか。
災害のときに、みんなで使えるように。
わたしは、何も言えなかった。
窓の外で、海が、春の光に光っていた。
第五章 油の一滴
その夜、わたしは、一人で、ミシンの前に座った。
五十年、わたしは、自分を、けちで、貧乏くさい女だと思ってきた。
新しい物を買えない、古い物にしがみつく、つまらない人間だと。
でも、そうではなかったのかもしれない。
毎週、一滴ずつ、油をさした。
ほこりをふき、ゆるんだねじをしめた。
それは、物を、使える物のままにしておくことだった。
新しい物は、便利だが、電気が止まれば、何もできない。
手入れされた古い物は、いざというとき、ちゃんと動いた。
母のことを、思い出した。
嫁入りの日、母は、このミシンに油をさしながら、言ったのだという。
物は、手をかけた分だけ、長く働いてくれる。
わたしは、それを、ただの古い言い方だと思っていた。
夫の背広の肘の当て布も、思い出した。
夫は、十年、その背広を、文句も言わずに着ていた。
葬式の日、息子が、その背広を、形見にもらっていった。
わたしは、油さしを手に取って、いつものように、一滴ずつ、油をさした。
エピローグ
夏、ミシンは、町の公民館に運ばれた。
ミシンの横に、沙織さんが書いた紙が、一枚かけてあった。
停電のときにも動きます。日曜日に油をさしてください。
最初の日曜日、わたしは、油さしを持って、公民館に行った。
ミシンの前に、中学生の女の子が二人、座っていた。
沙織さんに言われて、手入れの仕方を、教わりに来たのだという。
わたしは、針の通るところ、車輪の軸、ペダルのつなぎ目を、一つずつ指さした。
一滴ずつよ。多すぎても、いけないの。
女の子が、おそるおそる、油をさした。
板を踏むと、車輪が、なめらかに回った。
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