退場の笛
真正面から、向き合っていた

朗読で聴く
第一章 谷のグラウンド
七十二になった。
イギリスの西、ウェールズの、炭鉱のあった谷の町に住んでいる。
炭鉱は、四十年前に閉じた。
わたしは、そのあと、町の郵便局で、二十五年働いた。
妻のメアリーは、五年前に死んだ。
娘が一人、カーディフで、学校の先生をしている。
谷の町には、ラグビーのクラブがある。
土曜の午後になると、町じゅうの人が、川ぞいのグラウンドに集まる。
わたしは、三十のときから七十まで、そのグラウンドで、審判をしてきた。
四十年になる。
審判は、試合の真ん中に立つ。
選手の正面に立ち、反則があれば、笛を吹いて、まっすぐ前で言う。
だれの味方もしない。
それが、審判の仕事だった。
土曜の朝は、いつも、早くに目がさめた。
黒いシャツにアイロンをかけ、笛のひもを確かめ、靴を磨いた。
昼すぎ、雨の中でも、川ぞいの道を歩いてグラウンドへ行った。
谷の雨は、横から降る。
泥だらけのグラウンドで、八十分、選手と一緒に走った。
試合が終わると、ひざが痛んだが、それも、きらいではなかった。
郵便局の仕事は、月曜から金曜まで。土曜の午後だけが、わたしの谷の時間だった。
第二章 味方をしない男
町の人には、よく言われた。
あの審判は、地元のチームにも、ちっとも甘くない。
よその谷の審判は、地元の選手の小さな反則なら、見なかったことにする。
わたしは、それができなかった。
地元の選手でも、反則は反則だと、本人の正面で言った。
グラウンドの外から、何度もどなられた。
おまえは、どっちの谷の人間だ。
パブに行っても、だれも、わたしのとなりに座らなかった。
メアリーにも、言われたことがある。
あなた、少しくらい、目をつぶってあげたらいいのに。
わたしは、そうだな、と答えた。
でも、どうしても、目をつぶることができなかった。
自分は、融通のきかない、かたい男なのだと思っていた。
町の人に好かれない人間なのだと。
第三章 リース
三十三年前の秋、地元のチームに、リースという若い選手がいた。
十九の、体の大きな、谷でいちばん足の速い子だった。
家は、父親が炭鉱を失業してから、荒れていたと聞いていた。
リースは、すぐに手が出た。
試合のたびに、相手の選手となぐりあいになりかけた。
でも、チームでいちばんの選手だったので、ほかの審判は、見ないふりをした。
ある土曜日、リースは、倒れた相手の選手を、なぐろうとした。
わたしは、笛を吹いて、リースの正面に立った。
リースは、わたしより頭ひとつ大きかった。
わたしは、見上げて、目をそらさずに言った。
リース、おまえは、こんなことをする選手じゃない。退場だ。
グラウンドの外から、ものすごい声が上がった。
リースは、こぶしをにぎったまま、わたしの顔を見ていた。
長い時間に思えた。
それから、リースは、こぶしをほどいて、グラウンドの外へ歩いていった。
その晩、パブで、わたしは、何人もの男に囲まれて、どなられた。
次の週から、リースは、クラブに来なくなった。
わたしは、あの子の居場所を、取り上げてしまったのだと思った。
それから何年も、町の人は、あのことを忘れなかった。
リースを谷から追い出した審判だと、うしろで言う人もいた。
郵便局の窓口で、わたしに切手を売ってもらうのをいやがって、となり町まで行く人もいた。
わたしは、それでも、土曜には、グラウンドに立った。
反則は反則だと、正面で言いつづけた。
ほかのやり方を、わたしは知らなかった。
ときどき、川ぞいの道で、リースの家の前を通った。
窓は、いつも、カーテンが閉まっていた。
第四章 リースの話
この春、ひざを悪くして、わたしは、審判をやめることにした。
最後の試合が終わったあと、一人の男が、グラウンドの真ん中に立っていた。
五十二になった、リースだった。
いまは、となりの谷で、若い選手の審判をしているという。
リースは、わたしの笛を見て、少し笑った。
あのころ、大人は、みんな、ぼくから目をそらしていました。
父も、先生も、ほかの審判も。
ぼくが何をしても、見ないふりをした。こわかったんだと思います。
でも、あなただけは、ぼくの正面に立って、目をそらさずに言った。
おまえは、こんなことをする選手じゃない、って。
あれが、初めてでした。だれかが、ぼくをまっすぐ見たのは。
あの日、ぼく、あなたをなぐるつもりでした。
でも、あなたは、一歩も下がらなかった。
だから、ぼくも、逃げられなかった。自分のしたことから。
次の週から、クラブに行けなかったのは、恥ずかしかったからです。
それから、ボクシングのジムに通って、手を出すのは、リングの中だけにしました。
リースは、自分の笛を、ポケットから出した。
いまは、ぼくが、若い子の正面に立ちます。
あなたは、真正面から、向き合ってくれた。
目をそらさずに、退場だと言ってくれた。それで、ぼくは、まともになれたんです。
わたしは、何も言えなかった。
谷の上に、春の雲が、ゆっくり流れていた。
第五章 正面に立ったこと
その夜、わたしは、一人で、台所のテーブルに座っていた。
四十年、わたしは、自分を、融通のきかない、かたい男だと思ってきた。
地元の味方もしない、町の人に好かれない審判だと。
でも、そうではなかったのかもしれない。
見ないふりをするのは、やさしいことのように見える。
でも、それは、相手から目をそらすことでもあったのだ。
わたしは、正面に立った。
それは、あの子と、真正面から向き合うことだった。
向き合われたから、あの子は、自分のしたことから逃げずにすんだ。
メアリーのことを、思い出した。
あなた、少しくらい、目をつぶってあげたらいいのに。
そう言いながら、メアリーは、毎週土曜日、グラウンドのいちばん前で、わたしの試合を見ていた。
どなられた晩も、何も言わずに、温かいスープを出してくれた。
メアリーも、目をそらさずに、わたしを見ていたのかもしれない。
娘のことも、思い出した。
娘が十五のとき、試験で悪い点を取って、答案をかくしたことがある。
わたしは、娘の正面に座って、かくすのは、点が悪いより、よくないと言った。
娘は泣いて、一週間、口をきかなかった。
去年、娘は電話で、学校で生徒の答案を返すとき、一人ずつ正面に座らせる、と話していた。
わたしは、引き出しから、四十年使った笛を出した。
金具は、すっかり、すり減っていた。
くわえるところには、四十年分の、わたしの歯の跡が、小さく残っていた。
エピローグ
夏、リースから、写真が届いた。
となりの谷のグラウンドで、リースが、若い選手の正面に立っている写真だった。
若い選手は、こぶしをにぎったまま、リースを見上げていた。
写真のうしろに、短く書いてあった。
この子は、先週、退場になりました。
今週、謝りに来ました。
あなたの笛のおかげです。
わたしは、写真を、台所の窓辺に立てた。
それから、古い笛を、リースあてに、小さな箱に入れて送った。
あなたの魂のテーマに気づく場所