前で言う
真正面から、向き合っていた

朗読で聴く
第一章 山の宿
六十三になった。
長野の山の中の、小さな温泉旅館の女将をしている。
二十八で、この宿に嫁いできた。
三十五年になる。
夫は、宿の主人で、いまも元気に、風呂の掃除をしている。
子どもは、娘が一人。東京で、看護師をしている。
宿は、部屋が八つだけの、古い木造の建物だ。
夕食は、山菜と川の魚と、地元の野菜を使う。
板場には、料理人が二人いる。
毎晩、料理を客に出す前に、わたしが、一皿ずつ味を見る。
それが、嫁いできたときからの、わたしの仕事だった。
味がよければ、黙ってうなずく。
よくなければ、その場で、料理人の前で、言う。
これは、出せません。
朝は、五時に起きて、玄関と廊下をふく。
七時に、泊まりのお客さんの朝食を出し、十時に、見送る。
昼のあいだに、部屋を整え、布団を干し、夕方の料理の材料を板場と決める。
春は山菜、夏は川の魚、秋はきのこ、冬はしし鍋。
山の中なので、材料は、ほとんどが、近くの人たちが持ってきてくれるものだ。
朝、裏口に、とれたての山菜がかごに入って置いてあることもある。
わたしは、それを、そのまま食べてほしいと思っていた。
山でとれたものの味が、いちばんのごちそうだと思っていた。
第二章 こわい女将
板場の人たちには、よく言われた。
ここの女将は、こわい。
ほかの宿の女将は、料理人に、気をつかって、やさしく言う。
あとで、仲居さんを通して、それとなく伝えたりする。
わたしは、それができなかった。
まずいものは、まずいと、本人の前で言った。
仲居さんたちにも、言われた。
女将さん、もう少し、言い方を考えたほうがいいですよ。
料理人が、何人も、やめていきましたから。
わたしは、はい、と答えた。
でも、言い方を変えることは、どうしてもできなかった。
かげで言うくらいなら、前で言うほうがいい。
そう思っていたが、だれにも説明はしなかった。
嫁いできたころ、先代の女将だった義母にも、言われたことがある。
あんたは、正直すぎる。客商売には向かないね。
義母は、料理人にも、客にも、いつもにこにこしていた。
わたしは、その横で、どうしても同じように笑えなかった。
自分は、人を育てるのが下手な、きつい女なのだと思っていた。
第三章 健一さん
二十五年前の春、板場に、若い料理人が入ってきた。
二十二の、健一さんという人だった。
京都の料亭で修業してきたといって、腕に自信があった。
健一さんは、最初の晩から、自分の考えた料理を出そうとした。
川の魚に、京都風の、甘いたれをかけた料理だった。
わたしは、一口食べて、言った。
これは、出せません。
健一さんの顔が、こわばった。
どこが、だめなんですか。
わたしは、健一さんの顔を、まっすぐ見て答えた。
この魚は、今朝、川でとれたものです。たれが甘すぎて、魚の味がしません。
あなたの腕を見せる料理になっていて、魚を食べさせる料理になっていません。
健一さんは、黙って、皿を下げた。
次の晩、健一さんは、たれを少し薄くしてきた。
わたしは、また、出せませんと言った。
まだ、魚より、たれの味が先にきます。
その次の晩は、たれの上に、細かく刻んだ木の芽をのせてきた。
飾りが、魚より目立っています。出せません。
健一さんは、くちびるをかんで、皿を下げた。
仲居さんたちは、板場の外で、ひそひそ話をしていた。
女将さん、あれじゃ、健ちゃんがかわいそうよ。
それから三か月、健一さんの料理を、わたしは、何度も出せないと言った。
出せると言えたのは、たった二度だった。
二度とも、魚に、塩を少しふって焼いただけの皿だった。
板場の人たちは、健一さんに同情した。
女将は、若い人をいじめている、という声も聞こえた。
夏の終わり、健一さんは、宿をやめた。
最後の日、わたしに、何も言わずに、頭だけ下げていった。
わたしは、また一人、だめにしてしまったと思った。
第四章 健一さんの話
この秋、宿の古い板場を、建て直すことになった。
工事の前の日、一人の男の人が、宿にやってきた。
四十七になった、健一さんだった。
いまは、東京で、自分の小さな料理屋をやっているという。
予約の取れない店だと、娘から聞いたことがあった。
健一さんは、古い板場の、まな板の前に立った。
あのころ、ぼく、どこへ行っても、ほめられてばかりでした。
京都でも、筋がいいと言われた。
でも、あとで、かげで、あいつは自分の料理しか作らない、と言われていたんです。
前で言ってくれた人は、一人もいなかった。
ここの女将さんだけが、ぼくの前で、まっすぐ、出せませんと言った。
腹が立ちました。悔しくて、夜、川のそばで泣きました。
でも、あの言葉だけは、どこへ行っても、ずっと耳に残っていた。
あなたの腕を見せる料理になっている。魚を食べさせる料理になっていない。
健一さんは、少し笑った。
あれから、ぼくは、料理を作るたびに、自分に聞くんです。
これは、だれに食べさせる料理か、って。
かげで言わずに、前で言ってくれた。だから、ぼくは、逃げずにすんだんです。
あの夏、ぼくが出せた二皿、覚えてますか。
塩を少しふって、焼いただけの魚。
あれが、いまの、ぼくの店のいちばんの料理なんです。
お客さんは、みんな、何も足していないのに、どうしてこんなにおいしいのかと聞きます。
ぼくは、山の宿の女将に、何も足さないことを教わった、と答えています。
わたしは、何も言えなかった。
窓の外で、川の音が、いつもより大きく聞こえていた。
第五章 前で言ったこと
その夜、客の夕食が終わったあと、わたしは、一人で板場に立った。
三十五年、わたしは、自分を、人を育てるのが下手な、きつい女将だと思ってきた。
料理人を何人もやめさせた、こわい女だと。
でも、そうではなかったのかもしれない。
かげでやさしく言うのは、やさしいことのように見える。
でも、それは、相手と向き合わずに、すませることでもあったのだ。
わたしは、前で言った。
それは、あの人と、真正面から向き合うことだった。
向き合われたから、あの人は、逃げずに、自分の料理を考えることができた。
夫のことを、思い出した。
嫁いできた最初の年、わたしは、夫にも、前で言った。
この宿の風呂は、掃除が足りません。
夫は、怒りもせず、次の朝から、自分で風呂を洗いはじめた。
三十五年、一日も休まずに。
あの人も、前で言われたから、逃げなかったのかもしれない。
エピローグ
冬、健一さんの店から、小さな包みが届いた。
中には、川の魚の甘露煮が入っていた。
手紙が、一枚、そえてあった。
うちの若い者が作りました。
ぼくは、最初の三回、これは出せない、と本人の前で言いました。
四回目に、やっと、魚の味がしました。
女将さんに、一番に食べてもらいたいそうです。
わたしは、その夜、一切れを、口に入れた。
甘さは、ちょうどよかった。
魚の味が、ちゃんとした。
わたしは、便箋を出して、本人あてに、一行だけ書いた。
これは、出せます。
あなたの魂のテーマに気づく場所