窓口の正面
真正面から、向き合っていた

朗読で聴く
第一章 信用金庫の窓口
六十八になった。
静岡の、お茶の畑にかこまれた小さな町に住んでいる。
二十二のときから、町の信用金庫で、窓口の係をしてきた。
六十でやめるまで、三十八年。
夫は、三年前に死んだ。
息子が一人いて、浜松で暮らしている。
信用金庫の窓口は、駅前の通りに面していた。
カウンターの向こうに、いすが三つ並んでいる。
お客さんは、そのいすに座り、通帳とはんこを出す。
わたしは、その向かいに座って、お金を数えた。
窓口に座ると、お客さんの顔が、ちょうど真正面にくる。
わたしは、昔から、人の顔をまっすぐ見て話すくせがあった。
目をそらすのが、どうしても、できなかった。
朝は、八時に店に入り、金庫を開け、お札を数えて、窓口の引き出しに入れた。
九時になると、シャッターが上がり、お客さんが入ってくる。
お茶の畑の人、商店街の人、年金を受け取りに来る年寄り。
月末になると、窓口の前に、長い列ができた。
三時に窓口を閉めてから、その日の伝票を、一枚ずつ、計算機でたしかめた。
一円でも合わないと、合うまで、帰れなかった。
夜の七時、八時になることも、めずらしくなかった。
それでも、わたしは、この仕事が、きらいではなかった。
第二章 きつい人
町の人には、よく言われた。
あの窓口の人は、きつい。
にこりともしないで、じっとこっちを見る。
たしかに、わたしは、愛想笑いが下手だった。
お客さんの書いた伝票がまちがっていると、そのまま、まちがっていますと言った。
ほかの係は、やわらかく言い直したり、こっそり直してあげたりした。
支店長にも、言われたことがある。
お客さんには、もう少し、遠回しに言ってくれんか。
わたしは、はい、と答えた。
でも、遠回しの言い方が、どうしても、わからなかった。
夫にも、結婚したころに言われた。
おまえは、言いにくいことを、まっすぐ言うなあ。
わたしは、自分を、気のきかない、かたい女だと思っていた。
人をいやな気持ちにさせる人間なのだと。
第三章 村井さん
二十五年前の秋、一人の男の人が、窓口に来た。
町の小さな鉄工所の社長の、村井さんだった。
四十五くらいで、いつも油のしみた作業着を着ていた。
その日、村井さんは、背広を着ていた。
定期預金を、全部、解約したいと言った。
家族の名前の通帳も、全部だった。
何に使うのかと聞くと、村井さんは、少し早口で答えた。
東京の人に、いい話を聞いた。三か月で、倍になる。
工場の借金も、それで返せる。
わたしは、伝票を書く手を止めた。
ほかの係なら、お客さんのお金だから、と言って、手続きをしただろう。
わたしは、村井さんの顔を、まっすぐ見た。
村井さん。その話は、おかしいと思います。
三か月で倍になるお金は、ありません。
村井さんの顔が、赤くなった。
あんたに、何がわかる。おれの貯金だ。
大きな声に、待合のお客さんたちが、こちらを見た。
わたしは、目をそらさなかった。
はい、村井さんのお金です。だから、言っています。
村井さんは、通帳を持ったまま、黙って出ていった。
その日の夕方、本店から、苦情の電話があった。
窓口の女に、恥をかかされた、と。
わたしは、支店長に、ひどく叱られた。
お客さんのお金の使い道に、口を出すのは、わたしたちの仕事じゃない。
始末書を書きなさい。
わたしは、その夜、家の台所で、始末書を書いた。
何と書けばいいのか、わからなかった。
おかしいと思ったことを、おかしいと言いました、とだけ書いて、消した。
結局、申しわけありませんでした、と一行だけ書いて、次の朝、出した。
夫は、横で、黙ってお茶をいれてくれた。
第四章 村井さんの娘
ひと月ほどして、東京のその会社がつぶれたと、新聞に出た。
町でも、何人かが、お金をなくしたという。
村井さんは、その後も、ふつうに窓口に来た。
でも、あの日のことは、何も言わなかった。
わたしも、何も聞かなかった。
ただ、村井さんは、それから、窓口に来ると、いつも、わたしの前のいすに座った。
ほかの窓口が空いていても、わたしの列に並んだ。
通帳を出すとき、少しだけ、頭を下げるようになった。
わたしがやめる日まで、十年以上、それは変わらなかった。
この春、村井さんが、七十で亡くなった。
葬式が終わってしばらくして、家に、一人の女の人が訪ねてきた。
四十になる、村井さんの娘の美穂さんだった。
いまは、あの鉄工所を継いで、社長をしているという。
美穂さんは、仏壇に手を合わせてから、わたしのほうに向き直った。
父が、最後の入院のときに、話してくれたんです。
二十五年前、家の貯金を、全部なくすところだった。
あの日、窓口の人だけが、目をそらさずに、おかしいと言ってくれた。
ほかの人は、みんな、にこにこして、はんこを押そうとした。
おれは、腹が立った。恥ずかしかった。
でも、あの人の目を見たら、もう一度、考えないわけにいかなかった。
美穂さんは、少し笑った。
あのお金で、わたし、大学に行けたんです。
工場も、つぶれずにすみました。
父は、言ってました。
あの人は、真正面から、向き合ってくれた。
だから、おれは、逃げずにすんだ。
目をそらさずに、言ってくれた。父は、それを、ずっと覚えていました。
わたしは、何も言えなかった。
窓の外で、お茶の畑の向こうに、夕日が沈みかけていた。
第五章 まっすぐ見たこと
美穂さんが帰ったあと、わたしは、縁側に座っていた。
三十八年、わたしは、自分を、気のきかない、きつい女だと思ってきた。
人の顔をじっと見て、言いにくいことを言う、かたい人間だと。
でも、そうではなかったのかもしれない。
にこにこして、はんこを押すのは、やさしいことのように見える。
でも、それは、相手から目をそらすことでもあったのだ。
わたしは、目をそらさなかった。
それは、あの人と、真正面から向き合うことだった。
向き合われたから、あの人は、逃げずに考えることができた。
夫の言葉を、思い出した。
おまえは、言いにくいことを、まっすぐ言うなあ。
あの人は、そのあとに、こう言ったのだった。
だから、おれは、おまえと結婚したんだ。
あのときは、照れかくしだと思って、聞き流していた。
わたしは、縁側から、お茶の畑を見た。
まっすぐな畝が、夕日の中で、どこまでも並んでいた。
エピローグ
夏、美穂さんから、手紙が届いた。
鉄工所の若い職人の話が、書いてあった。
その子は、仕事の段取りをまちがえて、黙って、ごまかそうとしたという。
わたしは、その子を事務所に呼んで、まっすぐ目を見て、話しました。
これは、まちがっている。だから、一緒に直そう、と。
その子は、しばらく黙っていて、それから、すみませんでした、と言いました。
次の日から、その子は、まちがえるたびに、自分から言いに来るようになりました。
手紙の最後に、小さく書いてあった。
あなたから、父が受け取ったものです。
わたしは、手紙を、仏壇の横に置いた。
それから、夫の写真を、まっすぐに見た。
あなたの魂のテーマに気づく場所