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十数えるあいだ

大人として、扱ってくれた

十数えるあいだ

朗読で聴く

第一章 山あいの診療所

七十二になった。

岐阜の山あいの、小さな町に住んでいる。

二十四のときから、町に一つだけの診療所で、看護師をしてきた。

六十五でやめるまで、四十一年。

夫は、十年前に死んだ。

娘が一人いて、名古屋で暮らしている。

診療所には、先生が一人、看護師が二人。

朝から、熱を出した子どもや、腰の痛い年寄りが来る。

わたしの仕事は、注射と、包帯と、薬の説明だった。

子どもに注射をするとき、ほかの看護師は、痛くないよ、と言った。

わたしは、言わなかった。

痛いよ。十数えるあいだ、痛い。数え終わったら、終わり。

そう言って、針を刺した。

子どもは、泣いた。

でも、わたしは、十数えて、本当にそこで針を抜いた。

冬になると、先生といっしょに、雪の中を往診に回った。

山の奥の家には、車が入らないので、坂道を歩いて登った。

寝たきりの年寄りの床ずれに薬をぬり、家の人に、包帯の替え方を教えた。

家の人にも、わたしは、本当のことを言った。

この傷は、すぐには、ふさがりません。毎日、二回、替えてください。

帰り道、先生に、もう少し言い方があるだろう、と笑われた。

わたしには、ほかの言い方が、わからなかった。

第二章 こわい看護婦さん

町の子どもたちは、わたしを、こわい看護婦さんと呼んだ。

待合室で、わたしの声がすると、泣き出す子もいた。

親たちにも、言われた。

子どもなんだから、うそでもいいから、痛くないって言ってやってよ。

先生にも、一度、言われたことがある。

もう少し、やさしくしてやってくれんか。

わたしは、はい、と答えた。

でも、うそは、どうしても言えなかった。

痛くないと言われて刺された子は、次から、大人の言うことを信じなくなる。

そう思っていたが、だれにも説明はしなかった。

わたしは、子どもに、子どもの言葉で話すのも、下手だった。

大人に話すのと同じ言葉で、同じように話した。

自分は、子どもにやさしくできない、冷たい人間なのだと思っていた。

娘にも、お母さんは、ほかのお母さんみたいに、やさしくないと言われた。

第三章 千夏ちゃん

三十年前の秋、千夏ちゃんという女の子が、診療所に通ってきた。

九つの、色の白い、静かな子だった。

腎臓の病気で、週に一度、血を調べ、薬を変えた。

町の病院では足りなくて、ときどき、遠くの大きな病院にも入院していた。

まわりの大人は、みんな、千夏ちゃんに言った。

大丈夫、すぐ治るからね。

ある日、採血のあと、千夏ちゃんが、わたしに聞いた。

わたしの病気、すぐ治るの。

わたしは、少し考えてから、答えた。

すぐには、治らない。長くかかる。

薬を、毎日、決まった時間に飲むこと。塩を、ひかえること。

それを守れば、悪くなるのを、ゆっくりにできる。

千夏ちゃんは、しばらく、黙っていた。

それから、もう一つ聞いた。

どうして、塩をひかえるの。

わたしは、紙に、腎臓の絵をかいて、大人に話すのと同じように説明した。

千夏ちゃんは、その紙を、ていねいにたたんで、ポケットに入れた。

次の週から、千夏ちゃんは、自分で、薬の時間を手帳に書いてくるようになった。

食べた塩の量も、小さな字で書いてあった。

ある冬、千夏ちゃんの数値が悪くなり、大きな病院に、ひと月入院した。

戻ってきた日、千夏ちゃんは、診療所の待合室で、わたしを待っていた。

病院の先生は、何も教えてくれなかった。お母さんとだけ、話してた。

千夏ちゃんは、そう言って、病院でもらった薬の袋を、わたしに見せた。

わたしは、袋の中の薬を一つずつ出して、何のための薬かを説明した。

これは、血圧を下げる薬。これは、むくみをとる薬。

千夏ちゃんは、手帳に、一つずつ書きうつした。

お母さんは、横で、少しこまった顔をしていた。

まだ九つなのに、そんなことまで教えなくても。

わたしは、この子の体のことです、とだけ答えた。

十二のとき、家族といっしょに、大きな病院のある町へ引っ越していった。

最後の日、千夏ちゃんは、わたしに頭を下げて、手帳を見せた。

三年分の、薬の時間が、すきまなく書いてあった。

第四章 千夏さんの話

この春、町の診療所が、建て替えになった。

古い建物の最後の日に、昔の看護師も呼ばれて、小さな集まりがあった。

待合室のすみに座っていると、白衣の女の人が、わたしの前に立った。

三十九になった、千夏ちゃんだった。

いまは、名古屋の病院で、子どもの病気を診る医者をしているという。

この診療所の、新しい先生にも、ときどき教えに来ているのだと言った。

千夏さんは、わたしのとなりに座った。

あのころ、大人はみんな、わたしに、すぐ治るって言いました。

でも、わたし、わかってたんです。すぐには治らないって。

うそを言われるたびに、わたしだけ、本当のことを知らされない子どもなんだと思った。

本当のことを言ってくれたのは、あなただけでした。

すぐには治らない。長くかかる。だから、こうしなさい。

あれで、初めて、自分の病気が、自分のものになったんです。

千夏さんは、ポケットから、古い紙を出した。

色の変わった、腎臓の絵だった。

わたしを、大人として、扱ってくれた。

だから、わたし、自分で薬を飲めた。自分で、病気とつきあえた。

いまは、わたしも、子どもに本当のことを言います。

十数えるあいだ、痛いよ、って。

千夏さんは、少し笑った。

こわい先生って、言われてます。

わたしは、何も言えなかった。

窓の外で、山の雪が、春の光に白く光っていた。

第五章 うそを言わなかったこと

その夜、わたしは、一人で、台所のいすに座っていた。

四十一年、わたしは、自分を、子どもにやさしくできない、こわい看護師だと思ってきた。

子どもの言葉で話せない、冷たい人間だと。

でも、そうではなかったのかもしれない。

子どもに、大人と同じ言葉で話した。

うそを言わずに、本当のことを言った。

それは、あの子を、一人の人間として扱うことだったのだ。

痛くないと言われるより、十数えるあいだ痛いと言われるほうが、こわくない子もいた。

娘のことを、思い出した。

お母さんは、ほかのお母さんみたいに、やさしくない。

でも、娘は、大きくなってから、一度だけ言ったことがある。

お母さんは、わたしに、一度もうそをつかなかったね。

あのとき、わたしは、それを、文句だと思って聞いた。

ほめ言葉だったのかもしれない。

わたしは、引き出しの奥から、古い手帳を出した。

あの秋、千夏ちゃんが、薬の時間を書いていたのと同じ形の手帳だった。

エピローグ

夏、千夏さんから、手紙が届いた。

入院している十歳の男の子の話が、書いてあった。

その子は、手術がこわくて、何日も、ごはんを食べなかったという。

わたしは、その子に、手術のことを、全部、本当のことで話しました。

どこを切るか。どのくらい痛いか。何日で歩けるか。

話し終わると、その子は、ごはんを食べました。

そして、言いました。先生だけ、ちゃんと教えてくれた、と。

手紙の最後に、小さく書いてあった。

あなたから、受け取ったものです。

わたしは、手紙を、台所の窓辺に置いた。

その夜、わたしは、娘に電話をかけた。

何を話すか決めずにかけたが、本当のことを、少しだけ話した。

ソウルミッション358

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