十字の切れ目
床に敷くものから、刷っていた

朗読で聴く
第一章 夜の工房
七十になった。
アイルランドの西の端、海に面した小さな町に住んでいる。
十四で学校をやめて、父のパン屋に入った。
それから、五十六年になる。
妻のノーラは、六年前に死んだ。
子どもは、いない。
店は、町の通りの真ん中にある。
店の前のほうは、パンを並べた売り場だ。
奥に、大きな窯と、粉をこねる台のある、工房がある。
わたしは、五十六年、ほとんどその奥にいた。
夜中の二時に起きて、粉を量り、こねて、生地を丸める。
この町のパンは、ソーダブレッドという、丸い田舎パンだ。
焼く前に、丸めた生地の上に、ナイフで深く、十字の切れ目を入れる。
そうしないと、焼いているうちに、パンがでたらめに割れてしまう。
生地は、こねすぎても、こねたりなくても、いけない。
手のひらで押して、ゆっくり戻ってくるくらいのやわらかさがいい。
そのやわらかさは、五十六年やっても、毎朝、手で確かめている。
粉も水も、季節によって、少しずつ違うからだ。
冬の夜は、窯に火を入れると、工房だけが、町でいちばん暖かくなる。
朝の六時、焼き上がったパンを、店先の売り場に運ぶ。
そこから先は、弟のデクランの仕事だった。
第二章 玄関マット
デクランは、わたしより二つ下で、明るい男だった。
ダブリンで修業をして、二十五で町に戻ってきた。
父が死ぬと、デクランが、店先の売り場に立つようになった。
客と冗談を言い、子どもに菓子をおまけし、町の祭りでは歌った。
町の人は、デクランのパン、と言った。
わたしの名前を知っている人は、ほとんどいなかった。
わたしは、それでいいと思っていた。
人と話すのは、苦手だった。
店の上の家も、デクランの一家が住んだ。
わたしとノーラは、町はずれの小さな家に住んだ。
ノーラの姉には、よく言われた。
あんたの亭主は、玄関マットだね。
みんなに踏まれて、文句ひとつ言わない。
ノーラは笑っていたが、わたしは、言い返さなかった。
その通りだと、自分でも思っていた。
店先に立つ人がいて、わたしは、その足もとにしいてあるものだ。
デクランが店を広げたいと言ったときも、わたしは、うなずいた。
窯を新しくする金が足りないと言われ、自分の貯金を出した。
返してもらったことは、ない。
返してくれと言ったことも、ない。
町の新聞に店が載ったときも、写真に写ったのは、デクランだけだった。
わたしは、その日も、奥で生地をこねていた。
ノーラは、新聞を見て、少しだけ、くちびるをかんでいた。
でも、何も言わなかった。
わたしも、何も言わなかった。
第三章 コナー
三十年前の冬、デクランの息子のコナーが、夜中に工房へ来た。
十になったばかりだった。
父親と、ひどいけんかをしたらしい。
家にいたくない、と言って、粉の袋のあいだに座りこんだ。
わたしは、何も聞かなかった。
台の端に、生地を一つ置いて、こねてみるか、と言った。
コナーは、力いっぱい、生地をたたいた。
何度も、何度も、たたいた。
生地は、つぶれても、たたかれても、やわらかいまま、もとに戻った。
しばらくすると、コナーは、泣きながら、ゆっくりこねはじめた。
わたしは、横で、自分の生地をこねていた。
それから、コナーは、ときどき夜中に来るようになった。
十字の切れ目の入れ方を、教えたのも、あの冬だった。
かたい生地に切れ目を入れても、きれいには開かん。
やわらかく、こねておくから、ナイフがすっと入る。
入ったところから、焼くと、十字が大きく開くんだ。
コナーは、最初、切れ目をうまく入れられなかった。
力を入れすぎて、生地が、つぶれてしまう。
わたしは、コナーの手の上に、自分の手を重ねた。
押さなくていい。生地のほうが、ナイフを入れてくれる。
何度めかに、コナーの十字が、すっと入った。
焼き上がったパンを窯から出すと、十字が、大きく、きれいに開いていた。
コナーは、それを、朝まで両手に持っていた。
デクランは、息子が夜中に工房にいることを、知っていたと思う。
でも、一度も、迎えには来なかった。
十五のとき、コナーは、ゴールウェイのパン屋に、見習いに出ていった。
第四章 コナーの話
この冬、デクランが、六十八で死んだ。
葬式には、町じゅうの人が来た。
みんな、デクランのパンの話をした。
あの人の店のパンは、町でいちばんだった。
朝、あの人の笑う声を聞きながら、パンを買うのが楽しみだった。
わたしは、教会のいちばんうしろに立って、それを聞いていた。
弟は、いい男だった。みんなが、そう言うのは、うれしかった。
葬式のあと、四十になったコナーが、工房に来た。
いまは、ゴールウェイで、自分の店を持っているという。
コナーは、こねる台に、手のひらを置いた。
伯父さん、父さんが、死ぬ前に言ってたよ。
町の人は、おれのパンだと言う。でも、あれはリアムのパンだ。
おれは、リアムがこねたものを、店先に並べていただけだ。
あいつが、やわらかくこねておくから、十字がきれいに開くんだ。
コナーは、少し笑った。
ぼくも、そう思う。
あの冬、ぼく、生地を、伯父さんをたたくみたいにたたいてた。
伯父さんは、何も言わなかった。
生地も、伯父さんも、たたかれても、やわらかいままだった。
だから、ぼく、あそこで泣けたんだ。
うちの店のパンの十字は、全部、伯父さんに教わった切り方だよ。
やわらかい生地からしか、あの十字は、開かないんだ。
わたしは、何も言えなかった。
窯の中で、火が、小さな音を立てていた。
第五章 開いていたもの
その夜、わたしは、いつものように、二時に起きた。
工房で、一人で、生地をこねた。
五十六年、わたしは、自分を、踏まれる玄関マットのような男だと思ってきた。
店先に立つ人の足もとにしいてある、安くて、目立たないもの。
でも、そうではなかったのかもしれない。
やわらかかったから、ナイフが入った。
やわらかかったから、たたかれても、もとに戻った。
かたい生地からは、あの十字は、開かなかった。
ノーラのことを、思い出した。
姉さんに玄関マットだと言われた夜、ノーラは言った。
玄関マットのない家には、だれも安心して入ってこないわよ。
あのとき、わたしは、なぐさめだと思って、聞き流した。
ノーラは、本気で言っていたのかもしれない。
わたしは、丸めた生地の上に、ナイフで十字を入れた。
ナイフは、すっと入った。
エピローグ
春、ゴールウェイのコナーから、写真が届いた。
コナーの店の、工房の写真だった。
こねる台の上に、焼き上がったソーダブレッドが、いくつも並んでいた。
どのパンも、十字が、大きく開いていた。
写真のうしろに、短く書いてあった。
新しく入った見習いの子に、十字の入れ方を教えました。
やわらかくこねておけば、ナイフはすっと入る、と。
わたしは、写真を、窯の横の壁に、ピンでとめた。
それから、粉を量り、こね台に、生地を一つ置いた。
夜明け前の工房に、粉のにおいが、静かに広がった。
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