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やわらかい床

床に敷くものから、刷っていた

やわらかい床

朗読で聴く

第一章 床張り

六十八になった。

岡山の、川ぞいの町に住んでいる。

二十のときから、床張りの職人をしてきた。

四十八年になる。

妻の和代と、二人で暮らしている。

息子が一人、大阪で会社勤めをしている。

床張りというのは、建物の床に、床材を張る仕事だ。

団地の台所、学校の廊下、病院の病室、役所の待合室。

長いシートの床材を広げ、寸法に切り、のりをつけて、すきまなく張っていく。

一日じゅう、ひざをついて、床だけを見ている。

だから、ひざは、とうに悪くなった。

家が建つとき、大工さんや左官さんの仕事は、みんなが見る。

床張りが来るのは、いちばん最後だ。

張り終わると、すぐに家具が運びこまれ、床は、その下にかくれる。

あとは、踏まれるだけだ。

第二章 床屋じゃないほう

わたしは、口べたで、目立たない男だった。

現場でも、いつも隅で、黙って床材を切っていた。

だれかの仕事の、いちばん下にしいてもらう仕事だと思っていた。

息子が小学生のころ、授業参観で、父親の仕事を書く作文があった。

息子は、とこや、と書いて、みんなに笑われたそうだ。

床屋じゃなくて、床張りだと、先生が直したらしい。

家に帰ってきた息子は、怒っていた。

お父さんの仕事、だれも知らん。

わたしは、そうじゃな、と言うしかなかった。

和代の親戚の集まりでも、仕事の話になると、わたしは黙った。

安い床材を、のりで張るだけの仕事。

だれの目にも、とまらない仕事。

自分も、そういう人間だと思っていた。

踏まれて、すりへって、何年かたったら、はがして捨てられる。

それが、床だ。

古い床をはがす仕事も、何度もした。

はがした床材は、丸めて、トラックの荷台に積む。

そのまま、処分場へ運ばれていく。

だれも、どこのだれが張った床だったかなど、気にしない。

わたしも、気にしたことはなかった。

ただ、はがすとき、ときどき、床の上に、いすの脚の丸い跡が残っているのを見た。

ここで、だれかが、毎日、ごはんを食べていたのだろう。

そう思うと、少しだけ、手が止まった。

第三章 訓練室の床

二十五年前、町のはずれに、子どものためのリハビリの病院ができた。

わたしの会社が、その床を張ることになった。

図面を見ると、歩く練習をする訓練室の床は、かたいタイルになっていた。

安くて、じょうぶで、掃除がしやすいからだ。

わたしは、現場で、その部屋を見て回った。

手すりの低さで、ここで小さな子が歩く練習をするのだとわかった。

子どもは、転ぶ。

何度も、何度も、転ぶ。

わたしは、現場監督に、床を変えられないかと言った。

厚くて、やわらかい床材にしたほうがいい。

監督は、予算がない、と言った。

わたしは、病院の事務長に、自分で頼みに行った。

材料の差額のぶんは、手間を減らして合わせます。

口べたのわたしが、人に頼みごとをしたのは、あれが初めてだった。

事務長は、しばらく考えて、うなずいた。

その部屋だけ、わたしは、土曜と日曜も一人で来て、ていねいに張った。

張っていると、車いすの女の子が、入り口からのぞいていた。

六つくらいの、ほそい子だった。

おじちゃん、この床、やわらかい。

わたしは、手を止めずに答えた。

転んでも、いたくないようにな。

女の子は、じっと、わたしの手もとを見ていた。

次の日も、その子は、入り口にいた。

看護師さんに押してもらった車いすから、身を乗り出していた。

わたしは、張り終えたところを指さした。

さわってみるか。

女の子は、車いすから手をのばして、床を押した。

ほんとだ、へこむ。

そう言って、女の子は、初めて笑った。

わたしは、継ぎ目にローラーをかけながら、少しだけ、うれしかった。

日曜の夕方、張り終えた部屋を、もう一度、ひざで歩いて確かめた。

継ぎ目に、すきまは、一つもなかった。

それきり、あの子に会うことはなかった。

病院の仕事のことも、だれにも話さなかった。

差額のぶん、その月の給料が少し減ったことも、和代には言わなかった。

第四章 真奈美さんの話

この春、その病院の床を、張りかえることになった。

ある日、家に、一人の女の人が訪ねてきた。

三十一になる、真奈美さんという人だった。

あの病院で、歩く練習を手伝う、理学療法士をしているという。

会社に聞いて、わたしをさがしたのだと言った。

あの訓練室の床を張ったのは、あなたですよね。

わたし、六つのとき、事故で歩けなくなって、あの部屋に入ったんです。

車いすから、おじさんが床を張るのを、見てました。

真奈美さんは、座布団の上で、まっすぐに座っていた。

あの部屋のことは、ずっと覚えてるんです。

床が、ほかの部屋と違って、少しやわらかかった。

大人になって、病院の人に聞いたら、あそこだけ、張った職人さんが頼んで変えたって。

あの部屋で、わたし、何百回も転びました。

転ぶたびに、床が、少しへこんで、受けとめてくれたんです。

だから、転ぶのが、こわくなかった。

こわくなかったから、また立てたんです。

いまは、わたしが、あの部屋で、子どもたちに歩き方を教えてます。

みんな、あの床で転んで、あの床で立つんです。

あの床だったから、立てたんです。

真奈美さんは、少し笑った。

張りかえる新しい床も、あなたに張ってほしいんです。

同じ、やわらかい床で。

わたしは、何も言えなかった。

台所で、和代が、お茶をいれる音がしていた。

第五章 刷りこまれていたもの

六月、わたしは、二十五年ぶりに、あの訓練室に入った。

古い床材を、端から、ゆっくりとはがしていった。

窓からの光が、低く、床に当たっていた。

その光の中で、床の上に、小さなへこみが、いくつも見えた。

手すりの下に、点々と、数えきれないほど。

転んだひざの跡、つえの先の跡、小さな足の跡。

二十五年分の、子どもたちの跡が、床に刷りこまれていた。

わたしは、ひざをついて、そのへこみを、指でなぞった。

四十八年、わたしは、自分を、踏まれるだけの床のような人間だと思ってきた。

安くて、目立たなくて、すぐにかくれる。

でも、そうではなかったのかもしれない。

やわらかかったから、へこんで、受けとめた。

受けとめたから、子どもたちは、また立った。

かたい床からは、この跡は、残らなかった。

夕方、息子から電話があった。

母さんに聞いた。真奈美さんの話。

息子は、少し黙ってから、言った。

作文、書き直したいな、いまなら。

わたしは、そうか、と言った。

それ以上は、何も言えなかった。

エピローグ

七月、新しい床を張り終えた。

前と同じ、厚くて、やわらかい床材だ。

最後の日、真奈美さんが、小さな男の子を連れてきた。

男の子は、手すりにつかまって、一歩、二歩と歩き、転んだ。

床が、少しだけ、へこんだ。

男の子は、泣かずに、また手すりをつかんだ。

真奈美さんが、わたしのほうを見て、うなずいた。

男の子は、三回転んで、三回立った。

四回めは、手すりの端まで、転ばずに歩いた。

わたしは、道具をしまい、部屋の入り口で、ひざをついた。

張ったばかりの床を、手のひらで、一度だけなでた。

まだ、何の跡も、ついていなかった。

これから、たくさんの跡が、刷りこまれていく。

ソウルミッション358

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