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廊下の切れ端

床に敷くものから、刷っていた

廊下の切れ端

朗読で聴く

第一章 長い廊下

七十になった。

長野の、山あいの小さな町に住んでいる。

二十二のときから、町の小学校で、用務員をしてきた。

六十でやめるまで、三十八年。

夫は、五年前に死んだ。

子どもは、いない。

学校には、長い廊下があった。

一階の端から端まで、まっすぐにのびた、茶色の廊下だ。

床は、リノリウムという、昔ながらの床材でできていた。

毎朝、子どもたちが来る前に、わたしはその廊下をみがいた。

バケツに水をくみ、モップをしぼって、端から端まで、三回。

冬は、水が冷たくて、指が赤くなった。

八時になると、子どもたちが、上ばきで走ってくる。

先生たちが、出席簿を持って、歩いていく。

だれも、床を見ない。

床は、踏まれるためにあるのだから、それでいいと思っていた。

第二章 踏まれる床

わたしは、昔から、目立たない人間だった。

職員室では、いつも隅の、ストーブの横に座っていた。

先生たちに頼まれれば、何でもした。

壊れた机を直し、雪をかき、ネズミの出た倉庫を片づけた。

いやだと言ったことは、一度もない。

夫には、よく言われた。

おまえは、あの廊下の床みたいな女だな。

何を言われても、文句ひとつ言わん。

わたしは、笑ってうなずいた。

その通りだと、自分でも思っていた。

リノリウムは、安い床材だ。

亜麻の油と、コルクの粉と、木の粉を練って、布の上にのばして固めたものだという。

石や木の床のように、立派ではない。

指で強く押すと、ほんの少し、へこむ。

机の脚の跡も、上ばきのかかとの跡も、すぐにつく。

わたしは、毎朝、その跡をみがいて消した。

夏休みには、ワックスを、端から端まで、三度ぬった。

ぬり終わった廊下は、つやつやと光って、窓の空が映った。

でも、二学期が始まって三日もすると、また上ばきの跡だらけになった。

だれも、ワックスをぬったことには、気づかない。

それでいいのだと、思っていた。

安くて、やわらかくて、踏まれても黙っている床。

わたしは、自分を、そういうものだと思ってきた。

第三章 由紀ちゃんの版

三十年前の冬、四年生に、由紀ちゃんという女の子がいた。

細くて、いつも同じセーターを着ている子だった。

家のことは、くわしくは知らない。

お母さんが一人で、夜まで働いていると聞いていた。

その冬、図工の時間に、版画をやることになった。

版にするのは、文房具屋で売っている、リノリウムの板だった。

一枚、三百円だったと思う。

由紀ちゃんだけ、その板を持ってこなかった。

次の週も、その次の週も、持ってこなかった。

休み時間、由紀ちゃんは、一人で教室に残っていた。

わたしは、廊下の掃除をしながら、それを見ていた。

用具室の奥に、廊下を直したときの、床の切れ端が残っていた。

同じリノリウムだ。

わたしは、その切れ端を、カッターで板と同じ大きさに切った。

裏の布をはがし、上の面をみがいて、平らにした。

放課後、教室の前で、由紀ちゃんに渡した。

これ、廊下の床と同じものだけど、彫れるよ。

由紀ちゃんは、切れ端を両手で持って、しばらく見ていた。

それから、小さく、ありがとう、と言った。

次の日から、由紀ちゃんは、休み時間も、版を彫っていた。

ときどき、刀を持ったまま、廊下に出てきた。

そして、わたしがモップをかけるのを、じっと見ていた。

一度だけ、聞かれたことがある。

おばさん、毎日みがいて、いやにならないの。

わたしは、少し考えてから、答えた。

この床、やわらかいから、毎日跡がつくの。だから、毎日みがくの。

由紀ちゃんは、ふうん、と言って、教室に戻っていった。

図工の先生は、由紀ちゃんの版を見て、首をかしげていた。

この板、少し色が違うね。

由紀ちゃんは、黙って、彫りつづけていた。

わたしも、黙って、廊下をみがきつづけた。

三月、廊下の壁に、四年生の版画が並んだ。

由紀ちゃんの版画は、長い廊下と、バケツとモップの絵だった。

人は、描かれていなかった。

太い、まっ黒な線で、廊下がずっと奥までのびていた。

あの版が床の切れ端だったことは、だれも知らなかった。

四月、由紀ちゃんは、お母さんと、町を出ていった。

第四章 由紀さんの話

この春、小学校が、閉校になった。

子どもが、少なくなったのだ。

校舎は取りこわされ、廊下の床も、はがされることになった。

取りこわしの前の日、最後に、学校を見に行った。

廊下に、一人の女の人が立っていた。

四十になった、由紀ちゃんだった。

いまは、松本の中学で美術を教えながら、版画を刷っているという。

閉校の知らせを見て、来たのだと言った。

由紀さんは、廊下の床にしゃがんで、手のひらを当てた。

わたし、いまでも、版は床材屋さんで買うんです。

画材屋さんの板より、こっちのほうが、わたしの手に合うから。

あの冬、もらった切れ端が、わたしの最初の版でした。

やわらかいから、刀が、すっと入るんです。

入ったところは、白く残る。残ったところは、まっ黒に刷れる。

かたい板だと、刀がすべって、あの黒は出ないんです。

由紀さんは、かばんから、古い一枚の紙を出した。

あの冬の、廊下とバケツとモップの版画だった。

紙は黄ばんでいたが、黒は、いまも太くて、まっ黒だった。

あの床からしか、刷れなかったんです。

わたし、あれで初めて、自分にも何かが残せると思えた。

由紀さんは、少し笑った。

この床の切れ端、少しもらっていっていいですか。

うちの生徒にも、彫らせたいんです。

版を買えない子も、いるんです。あのときの、わたしみたいに。

わたしは、由紀さんと二人で、用務員室の工具箱から、カッターを出した。

廊下の端の、いちばんすりへったところを、四角く切りとった。

何十年も、上ばきに踏まれて、少しへこんだ床だった。

由紀さんは、その切れ端を、新聞紙に大事そうに包んだ。

わたしは、最後まで、何も言えなかった。

長い廊下に、春の光が、まっすぐ差していた。

第五章 刷れていたもの

その夜、わたしは、台所のいすに座って、長いあいだ、考えていた。

三十八年、わたしは、自分を、踏まれる床のような人間だと思ってきた。

安くて、やわらかくて、文句を言わない。

夫にも、そう言われた。

でも、そうではなかったのかもしれない。

やわらかいから、刀が入った。

へこむから、彫れた。

かたくて立派な板からは、あの黒は、刷れなかった。

由紀ちゃんの最初の一枚は、わたしの毎朝みがいていた、あの床で刷ったものだった。

夫の言葉を、思い出した。

おまえは、あの廊下の床みたいな女だな。

あの人は、悪口のつもりで言ったのだろうか。

ある冬の朝、夫が、廊下をみがくわたしを迎えに来たことがある。

雪の日で、車で送ってくれたのだ。

夫は、みがいたばかりの廊下を見て、きれいだな、と言った。

それきり、何も言わなかった。

あれも、あの人なりの、ほめ言葉だったのかもしれない。

わたしは、台所の床を、手のひらでなでた。

家の台所の床も、同じ、茶色のリノリウムだった。

エピローグ

夏、由紀さんから、小さな包みが届いた。

中には、一枚の版画が入っていた。

長い廊下の絵だった。

端から端まで、まっすぐにのびた廊下が、太い黒で刷ってあった。

あの廊下の、床の切れ端で彫ったのだという。

手紙には、こう書いてあった。

生徒たちも、みんな、あの床で彫りました。

一人の男の子が、先生、この版、すごくやわらかいね、と言いました。

だから、いい黒が出るんだよ、と答えました。

わたしは、その版画を、台所の壁にかけた。

朝、台所の床をふいてから、少しのあいだ、それを見た。

廊下の奥まで、黒は、まっすぐに刷れていた。

ソウルミッション358

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