振り向かないオルガン
何でできているかは、見えなかった

朗読で聴く
第一章 海辺の教会
七十になった。
イギリスの南西の端、コーンウォールの、海辺の小さな村に住んでいる。
村の丘の上に、古い石の教会がある。
二十二のときから、その教会で、オルガンを弾いてきた。
四十八年になる。
夫のピーターは、村の漁師だったが、十二年前に死んだ。
息子が一人、ロンドンで働いている。
教会のオルガンは、祭壇の横の、壁ぎわに置いてある。
弾くとき、わたしは、会衆に背中を向けて座る。
オルガンの上には、細長い窓があって、朝は、そこから海の光が入る。
だから、会衆の席から見えるのは、窓の光の前の、わたしの黒い背中の形だけだ。
わたしは、四十八年、ほとんど一度も、弾きながら振り向いたことがない。
鍵盤と楽譜と、窓の光だけを見て、弾いてきた。
結婚式の日も、葬式の日も、同じだった。
花嫁が通路を歩いてくるときも、わたしは、振り向かずに弾いた。
棺が運ばれていくときも、窓の光を見たまま、弾いた。
村の人たちの泣き顔も、笑い顔も、わたしは、ほとんど見たことがない。
知っているのは、うしろから聞こえてくる、声だけだ。
第二章 冷たいオルガン弾き
わたしは、昔から、人づきあいが下手だった。
日曜の礼拝が終わると、村の人たちは、教会の前で、お茶を飲みながら話をする。
わたしは、その輪に入らずに、楽譜をまとめて、まっすぐ家に帰った。
村の人には、よく言われた。
あの人は、冷たいわね。何を考えてるのか、わからない。
オルガンは上手だけど、愛想がない。
牧師さんにも、言われたことがある。
もう少し、みんなと話してみたらどうですか。
わたしは、はい、と答えた。
でも、どうしても、うまく話せなかった。
夫のピーターは、そんなわたしを、笑っていた。
おまえは、オルガンの前でしか、しゃべらないんだな。
わたしは、自分を、中を見せない、冷たい女だと思っていた。
村の人たちの顔を見るのも、苦手だった。
だから、背中を向けて弾けるオルガンは、わたしに合っていた。
練習は、いつも平日の夕方、だれもいない教会で一人でした。
窓の外が暗くなるまで、同じ曲を、何度もくり返した。
日曜の朝、うしろに人がいても、いつもと同じに弾けるように。
第三章 テス
三十二年前、聖歌隊に、テスという女の子が入ってきた。
九つの、細くて、目をふせた子だった。
テスは、ひどくどもる子だった。
話そうとすると、最初の音が、なかなか出てこない。
学校では、それで、ずいぶん笑われていたらしい。
母親が、歌なら、どもらないかもしれないと思って、聖歌隊に入れたのだという。
でも、最初の練習の日、テスは、口を開けたまま、声が出なかった。
ほかの子たちが、くすくす笑った。
聖歌隊の先生が、テスの顔をのぞきこんで、言った。
大丈夫よ、ゆっくりでいいから、こっちを見て、歌ってごらん。
テスは、真っ赤になって、下を向いた。
わたしは、オルガンの前で、それを背中で聞いていた。
振り向かなかった。
何と言えばいいのか、わからなかったからだ。
ただ、次の曲のはじめの音を、いつもより少し長く、のばして弾いた。
しばらくして、うしろから、小さな、細い声が聞こえてきた。
テスの声だった。
テスは、それから三年、聖歌隊で歌った。
声は、少しずつ、大きくなっていった。
練習のあと、テスは、いつもオルガンの横を通って帰った。
わたしの背中に、小さく、さよなら、と言っていくのが聞こえた。
十二のとき、家族といっしょに、隣の港町へ引っ越していった。
第四章 テスの話
この冬、わたしは、オルガンをやめることにした。
指が、思うように動かなくなってきた。
最後の日曜日、礼拝が終わったあと、一人の女の人が、オルガンのところへやってきた。
四十一になった、テスだった。
いまは、隣の港町の救命艇の基地で、無線係をしているという。
嵐の夜に、海の上の船と、無線で話す仕事だ。
テスは、オルガンの横に立って、窓の光を見た。
あのころ、わたし、人の顔を見ると、声が出なかったんです。
みんな、こっちを見て、と言う。
でも、顔を見られると、のどがしまって、何も出てこない。
先生だけが、一度も、振り向かなかった。
聖歌隊の席からは、窓の光の前に、先生の背中の形だけが見えてました。
顔も、何を考えてる人なのかも、わからなかった。
でも、その背中は、わたしを見ていなかった。
だから、わたし、その背中に向かって、歌えたんです。
先生の背中しか、見えなかったから、歌えた。
テスは、少し笑った。
無線では、だれも、わたしの顔を見ません。
だから、話せるんです。嵐の夜でも、何時間でも。
あの背中が、教えてくれたんです。見られていなくても、声は届くって。
わたしは、何も言えなかった。
オルガンの上の窓から、冬の海の光が、白く差しこんでいた。
第五章 見えなかったもの
テスが帰ったあと、わたしは、一人でオルガンの前に座った。
四十八年、わたしは、自分を、中を見せない、冷たい女だと思ってきた。
何を考えているかわからない、愛想のないオルガン弾きだと。
でも、そうではなかったのかもしれない。
会衆に見えていたのは、わたしの中身ではなかった。
顔も、気持ちも、見えなかった。
見えていたのは、窓の光の前の、背中の形だけだった。
その形が、振り向かずに、いつも同じところにあった。
それだけで、あの子は、声を出せたのだ。
中を見せなかったから、あの子は、見られずにすんだ。
夫のことを、思い出した。
おまえは、オルガンの前でしか、しゃべらないんだな。
あの人は、わたしの背中のしゃべり方を、知っていたのだろう。
漁から帰った日曜には、いつも、いちばんうしろの席に座っていた。
嵐の海で、ピーターの船が、一度だけ、動けなくなったことがある。
あの夜、ピーターを港まで連れ帰ったのは、救命艇だった。
無線の向こうの、知らない人の声が、朝まで、ピーターを呼びつづけていたという。
いま、その仕事をしているのが、テスなのだ。
顔の見えない声が、海の上で、だれかを支えている。
わたしの背中から、どこかで、それにつながっていたのかもしれない。
わたしは、窓の光を見ながら、最後の曲を、もう一度だけ弾いた。
エピローグ
春、テスから、手紙と写真が届いた。
写真には、救命艇の基地の小さな無線室と、その前に座ったテスの背中が写っていた。
窓の光の前に、黒い形になっていた。
手紙には、こう書いてあった。
先週の嵐の夜、沖で動けなくなった漁船と、三時間、無線で話しつづけました。
一度も、つかえませんでした。
船の人たちは、わたしの顔を知りません。
でも、朝、港に着いたとき、あの声の人はどこだ、と探しに来てくれました。
わたしは、写真を、オルガンの上の窓辺に立てかけた。
それから、鍵盤のふたを閉めて、教会の扉を開けた。
外では、村の人たちが、お茶を飲みながら話していた。
わたしは、初めて、その輪のほうへ、歩いていった。
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