背中の形
何でできているかは、見えなかった

朗読で聴く
第一章 夜行バス
六十四になった。
広島の、海に近い町に住んでいる。
三十四のときから、夜行バスの運転手をしてきた。
広島から東京まで、一晩かけて走るバスだ。
この春で、ちょうど三十年になる。
夫とは、四十のときに別れた。
子どもは、いない。
夜の九時に広島を出て、朝の七時すぎに東京に着く。
客は、三十人ほど。
出発すると、車内の明かりを消す。
客席は暗くなり、前のほうだけが、ヘッドライトと計器の明かりで、ぼんやり明るい。
客から見えるのは、運転席に座るわたしの、背中の形だけだ。
わたしは、昔から、口数が少なかった。
出発のとき、決まった案内を言うだけで、あとは何も話さない。
休憩所で、客に話しかけられても、短く答えるだけだった。
運転は、二人で交代する。
夜中の三時ごろ、相方の運転手と代わって、仮眠室で一時間ほど横になる。
それ以外の時間は、ずっと、前を見て、ハンドルをにぎっている。
雪の日も、雨の日も、霧の山道も、同じように走った。
三十年で、事故を起こしたことは、一度もない。
第二章 愛想のない運転手
会社には、ときどき、苦情が来た。
あの女の運転手、愛想がない。
質問しても、ぶっきらぼうで、冷たい。
上司にも、言われた。
もう少し、にこにこしてくれんか。お客さんは、不安なんじゃけえ。
わたしは、はい、と答えた。
でも、どうしても、うまく笑えなかった。
若いころから、何を考えているかわからない、と言われてきた。
結婚していたころ、夫にも言われた。
おまえは、何を思っとるんか、さっぱりわからん。
夫が出ていったのも、たぶん、そのせいだったと思う。
わたしは、自分を、中身の見えない、冷たい女だと思っていた。
だから、夜の運転が、性に合っていた。
暗い車内では、だれも、わたしの顔を見ない。
背中だけを向けて、ハンドルをにぎっていればいい。
朝、東京に着いて客を降ろすと、わたしは、一人で車内を見て回る。
忘れ物がないか、座席の毛布をたたみながら、一列ずつ。
それが終わると、ようやく、少しだけ肩の力が抜けた。
第三章 前の席の女の子
二十二年前の冬、一人の女の子が、バスに乗ってきた。
十六くらいの、やせた子だった。
大きなかばんも持たず、小さなリュック一つだった。
切符は、いちばん前の席、わたしのすぐうしろだった。
家出だろう、と思った。
そういう子は、ときどきいた。
わたしは、何も聞かなかった。
聞いても、答えないだろうと思った。
バスが走り出し、車内の明かりを消した。
バックミラーに、女の子の顔が、ちらりと映った。
眠らずに、ずっと、前を見ていた。
わたしの背中を、見ていたのだと思う。
夜中の一時、休憩所でバスを止めた。
女の子は、降りずに、座ったままだった。
わたしは、運転席から、毛布を一枚、うしろに差し出した。
寒かったら、使いなさい。
それだけ言って、また前を向いた。
女の子は、毛布を受け取って、小さくうなずいた。
休憩が終わると、わたしは、暖房を少しだけ強くした。
前の席は、窓からの冷気が、いちばん当たる。
それから、いつもより少しだけ、ゆっくり走った。
カーブで、車体が大きくゆれないように。
しばらくして、バックミラーを見ると、女の子は、毛布にくるまって、眠っていた。
朝、東京に着くと、女の子は、毛布をきちんとたたんで、席に置いていった。
降りるとき、わたしのほうを見て、小さく頭を下げた。
わたしは、いつものように、ありがとうございました、とだけ言った。
女の子は、朝の新宿の人ごみの中に、すぐに見えなくなった。
あの子がどこへ行ったのか、わたしは、知らない。
それから何年も、前の席に若い女の子が座ると、ふと、あの子のことを思い出した。
でも、だれにも、話さなかった。
第四章 美奈さんの話
この春、わたしは、運転手をやめることにした。
最後の運転の日、広島の営業所に、一人の女の人が訪ねてきた。
三十八になった、あの女の子だった。
美奈です。二十二年前、前の席に座ってました。
美奈さんは、制服を着ていた。
いま、東京の会社で、夜行バスの運転手をしているという。
あのあと、東京の親戚の家に、しばらくいさせてもらったという。
高校を出直して、二十五で、大型の免許を取った。
美奈さんは、営業所のベンチに座って、話してくれた。
あの夜、わたし、もう、どうでもいいと思ってたんです。
家にいられなくて、行くところもなくて。
暗いバスの中で、運転手さんの背中だけが、前に見えてました。
ヘッドライトの光の中に、黒い形だけ。
顔は、見えなかった。何を考えてる人なのかも、わからなかった。
でも、その背中が、何時間も、少しも動かなかったんです。
ずっと同じ形で、前を向いて、ハンドルをにぎってた。
ああ、この人が起きてる間は、大丈夫だって、思えた。
それで、眠れたんです。
わたし、運転手さんの背中の形しか、知らないんです。
でも、それだけで、よかった。
美奈さんは、少し笑った。
わたしも、お客さんに、愛想がないって言われてます。
でも、背中だけは、まっすぐにしてるんです。
わたしは、何も言えなかった。
営業所の窓の外で、わたしのバスが、出発を待っていた。
第五章 見えなかったもの
その夜、最後の東京行きを走らせた。
暗い車内で、わたしは、ずっと、前を見ていた。
三十年、わたしは、自分を、中身の見えない、冷たい女だと思ってきた。
何を考えているかわからない、愛想のない運転手だと。
でも、そうではなかったのかもしれない。
客に見えていたのは、わたしの中身ではなかった。
顔も、気持ちも、見えなかった。
見えていたのは、光の前にある、背中の形だけだった。
毎晩、同じ形で、前を向いて座っている。その形だけで、あの子は、眠れたのだ。
中を見せなくても、形は、届いていた。
別れた夫のことを、思い出した。
何を思っとるんか、わからん、と言われた。
わたしは、何も言い返せなかった。
でも、本当は、言葉にしなくても、そこにいることは、できたのだ。
あの夜、暖房を強くしたことも、ゆっくり走ったことも、あの子は知らない。
知らなくていい、と思った。
中で何をしていたかは、背中からは、見えない。
見えないまま、三十年分の夜が、だれかを運んでいた。
運転席の窓に映る自分の形は、若いころと、少しも変わっていなかった。
夜明けの高速道路に、東の空が、少しずつ白くなっていった。
エピローグ
夏、美奈さんから、写真が届いた。
夜行バスの運転席を、うしろの席から写した写真だった。
暗い車内で、運転手の背中が、ヘッドライトの光の中に、黒い形になっていた。
美奈さんの背中だった。
写真のうしろに、短く書いてあった。
前の席の、小さな男の子が撮ってくれました。
お母さんと二人で、どこか遠くへ行くところだったみたいです。
ずっと、わたしの背中を見てました。
わたしは、写真を、台所の窓辺に立てかけた。
顔の写っていない写真だったが、それで、よかった。
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