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六時の窓

何でできているかは、見えなかった

六時の窓

朗読で聴く

第一章 団地の五階

七十二になった。

大阪の郊外の、古い団地に住んでいる。

五階の、北側の部屋だ。

二十八で結婚して、この部屋に入った。

四十四年になる。

夫は、八年前に死んだ。

息子が一人いて、いまは神奈川で暮らしている。

わたしは、昔から、無口なたちだった。

人と話すのが苦手で、何を言えばいいのか、わからなくなる。

笑うのも、下手だった。

団地の集会でも、隅のほうに座って、黙っていた。

近所の人には、よく言われた。

あの人、何を考えてるのか、わからないわね。

愛想がない、とも言われた。

階段ですれちがっても、頭を下げるだけで、何も言わなかったからだ。

わたしは、自分を、冷たい人間だと思われているのだろうと思っていた。

実際、何を考えているのか、自分でもよくわからないときがあった。

第二章 台所の窓

わたしの台所には、大きな窓がある。

向かいの建物と、向かい合っている。

毎晩、六時になると、わたしは、その窓の前に立って、夕飯を作った。

夫が会社から帰るのが、七時だったからだ。

六時に作りはじめると、ちょうどいい。

夫が死んでからも、わたしは、六時に台所に立った。

一人分の夕飯を作るのに、そんなに時間はかからない。

それでも、六時になると、手が勝手に、鍋を出した。

台所の明かりは、わたしのうしろの、天井についている。

だから、外から見ると、窓には、わたしの影の形だけが映っていたはずだ。

顔も、着ている服の色も、見えなかっただろう。

わたしは、そんなことを、考えたこともなかった。

ただ、四十年あまり、毎晩、同じ時間に、同じ窓の前に立っていた。

夫は、生きていたころ、言ったことがある。

おまえは、何を考えてるのか、さっぱりわからん。

でも、六時になると、台所に立ってる。それだけは、わかる。

わたしは、それを、ほめられたとは思わなかった。

献立は、たいてい決まっていた。

味噌汁と、焼き魚と、煮物が一つ。

夫が死んでからは、その煮物を、三日に分けて食べた。

六時に立って、六時半には、もう洗い物をしていた。

窓の外では、向かいの建物の明かりが、一つずつ、ついていった。

第三章 向かいの建物

三十年ほど前、向かいの建物の五階に、親子が越してきた。

お父さんと、十歳くらいの男の子の二人だった。

お母さんは、いなかった。

お父さんは、夜遅くまで働いているようで、男の子は、いつも一人だった。

ときどき、階段の下で、男の子とすれちがった。

わたしは、いつものように、頭を下げるだけだった。

男の子も、黙って、頭を下げた。

話したことは、一度もなかった。

向かいの部屋は、夜になっても、なかなか明かりがつかなかった。

暗い窓の向こうに、男の子がいるのかどうかも、わからなかった。

わたしは、少し気になったが、何もしなかった。

声をかけるのは、苦手だった。

余計なお世話だと、思われるのもいやだった。

だから、毎晩、六時に、いつものように、台所に立った。

一度だけ、冬の夜に、熱を出して寝こんだことがある。

その晩は、六時になっても、台所に立てなかった。

次の日の朝、玄関の前に、小さなみかんが一つ、置いてあった。

だれが置いたのか、わからなかった。

夫は、近所の子どものいたずらだろう、と笑った。

わたしは、そのみかんを、しばらく食べずに、台所の窓辺に置いておいた。

五年ほどして、親子は、どこかへ越していった。

さよならも、言わなかった。

わたしは、男の子の名前も、知らなかった。

向かいの右から三つ目の窓には、別の家族が入り、夜は早くから明かりがつくようになった。

第四章 拓也さんの話

この春、団地の建て替えが決まり、わたしは、引っ越すことになった。

荷物をまとめていると、玄関のチャイムが鳴った。

四十くらいの男の人が、立っていた。

昔、向かいの建物に住んでいた、拓也です。

あの、男の子だった。

建て替えの知らせを見て、最後に来たのだという。

拓也さんは、わたしの台所の窓の前に立って、向かいの建物を見た。

あそこの、五階の、右から三つ目の窓です。

父が帰ってくるのは、いつも夜中でした。

ぼく、暗い部屋で、ずっと、こっちの窓を見てたんです。

六時になると、ここに、明かりがついて、人の形が立つ。

顔は、見えませんでした。何を作ってるのかも、わからなかった。

影の形だけでした。

でも、毎晩、六時になると、必ず、その形があった。

ああ、今日も、あの人がいる。

それだけで、ぼく、怖くなかったんです。

影の形だけで、よかったんです。

拓也さんは、少し笑った。

階段で会うと、おばさん、いつも黙って頭を下げるだけだったでしょう。

だから、ぼくも、黙ってました。

あの窓の人が、おばさんだって、知ってたけど。

一度だけ、六時に形が出なかった日があったでしょう。

ぼく、心配で、次の朝、みかんを一つ、玄関に置いたんです。

拓也さんは、いま、大阪の児童養護施設で働いているという。

夜勤の日は、六時になると、必ず、施設の台所の明かりをつけるんです。

子どもたちの部屋から、見えるところに。

何もしゃべらなくても、そこに形があれば、いいと思って。

わたしは、何も言えなかった。

窓の外で、向かいの建物の壁に、夕日が当たっていた。

第五章 見えなかったもの

拓也さんが帰ったあと、わたしは、台所の窓の前に立った。

七十二年、わたしは、自分を、何を考えているかわからない、冷たい人間だと思ってきた。

中を、だれにも見せられない女だと。

でも、そうではなかったのかもしれない。

あの子に見えていたのは、わたしの中身ではなかった。

何を考えているかも、どんな顔をしているかも、見えなかった。

見えていたのは、明かりの前に立つ、形だけだった。

毎晩、同じ時間に、同じところに立つ、その形だけで、あの子には、足りていた。

中身を見せなくても、形は、届いていたのだ。

夫の言葉を、思い出した。

何を考えてるのか、さっぱりわからん。でも、六時には、台所に立ってる。

あの人も、わたしの形で、わたしを知っていたのだろう。

窓辺に置いたままだった、あの冬のみかんのことも、思い出した。

だれのいたずらかと思っていたものは、向かいの暗い窓からの、返事だったのだ。

わたしは、何も話さなかった。あの子も、何も話さなかった。

それでも、窓と窓のあいだで、ちゃんと、やりとりがあった。

わたしは、その夜も、六時に、鍋を火にかけた。

向かいの建物の、右から三つ目の窓は、もう暗かった。

エピローグ

夏、神奈川の新しい団地に、引っ越した。

息子の家の、近くだった。

新しい部屋の台所にも、窓があった。

向かいの建物と、向かい合っている。

最初の晩、六時に、わたしは、台所に立った。

ふと見ると、向かいの建物の窓の一つに、小さな形が、二つ並んでいた。

子どもが、こっちを見ているようだった。

わたしは、少しだけ、手をあげた。

小さな形の一つが、手をあげかえした。

顔は、見えなかった。

それで、よかった。

ソウルミッション358

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