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あいだの一歩

ゆっくり育った木は、目が詰んでいた

あいだの一歩

朗読で聴く

第一章 古いピアノ

七十四になった。

アメリカの北東、バーモント州の、山の中の小さな町に住んでいる。

二十四のときから、家の居間で、子どもにピアノを教えてきた。

ちょうど五十年になる。

夫のトムは、町の金物屋をしていたが、十年前に死んだ。

娘が一人、ボストンにいる。

居間には、母から受けついだ、古いアップライトのピアノがある。

鍵盤の白いところが、少し黄色くなっている。

いちばんよく弾かれた真ん中のあたりは、ほかより少しだけ、すり減っている。

冬は雪が深く、子どもたちは、長靴の雪を玄関で払ってから、レッスンに来る。

わたしがピアノを始めたのは、十五のときだった。

ほかの子より、ずっと遅かった。

そして、覚えるのも、ずっと遅かった。

ほかの子が一週間で弾ける曲に、わたしは、一か月かかった。

第二章 のろい先生

十五のときの先生には、よく言われた。

あなたは、のろいわね。指も、頭も。

わたしは、一つの曲を、小さく小さく分けて覚えた。

右手の最初の三つの音だけを、一日じゅう弾いた。

次の日は、その次の二つの音。

それでも、つまずくところがあると、その音と音のあいだを、また分けた。

ほかの人には、そんなことをしなくても、すっと弾ける。

わたしには、あいだの一歩が、どうしても要った。

十七の春、初めての発表会があった。

ほかの子たちは、三曲も四曲も弾いた。

わたしは、半年かけて覚えた、短い曲を一つだけ弾いた。

客席から、くすくす笑う声が聞こえた。

たった一曲、それも、あんなにゆっくり。

帰り道、わたしは、もうやめようと思った。

でも、母が、黙って、わたしの手を取って歩いた。

次の週も、わたしは、ピアノの前に座った。

先生になってからも、わたしの教え方は、のろかった。

一つの曲を、何か月もかけて教えた。

親たちには、よく言われた。

うちの子、半年で一曲しか進まないんですけど。

町の向こうに、新しい音楽教室ができた。

若い先生が、一年で何曲も弾けるようにしてくれるという。

生徒は、少しずつ、そちらへ移っていった。

わたしは、自分を、のろい、物覚えの悪い先生だと思っていた。

自分が遅かったから、教えるのも遅いのだと。

第三章 ダニエル

三十五年前の秋、ダニエルという男の子が、うちに来た。

九つの、やせた、目をふせた子だった。

字を読むのが、ひどく苦手だった。

楽譜の音符も、目の前で、ばらばらに動いてしまうのだという。

町の向こうの教室を、三か月でやめさせられていた。

あの子は、向いていません、と言われたそうだ。

母親が、すまなそうに頭を下げた。

最初のレッスンで、わたしは、楽譜を閉じた。

そして、真ん中のドの音を一つだけ、ダニエルに弾かせた。

次の週は、ドとレ。

その次の週は、ドとレのあいだで、指をどう動かすか。

ほかの先生なら、きっと、そんなところは飛ばす。

でも、わたしは、そこで、何度も、つまずいたことがあった。

だから、どこにつまずく石があるのか、知っていた。

ダニエルは、つまずくたびに、くちびるをかんだ。

ぼく、のろいんだ。みんな、そう言う。

わたしは、笑って言った。

わたしもよ。だから、ゆっくりでいいの。

レッスンのあと、母親は、いつも玄関で、何度も頭を下げた。

ほかの子は、もう何曲も弾いているのに、すみません。

謝らなくていいんですよ、とわたしは言った。

ダニエルは、二年かかって、短い曲を一つ、弾けるようになった。

春の発表会で、ダニエルは、その一曲を、ゆっくり、最後まで弾いた。

客席の母親が、ハンカチで顔をおおっていた。

その年の秋、ダニエルの一家は、遠くの州へ引っ越していった。

それから三十年あまり、ダニエルのことは、何も聞かなかった。

ときどき、真ん中のドを弾くと、あの子の、ふせた目を思い出した。

第四章 ダニエルの話

この冬、わたしは、ピアノ教室を閉めることにした。

指が、思うように動かなくなってきた。

最後のレッスンの日、雪の中を、一台の車がやってきた。

降りてきたのは、四十四になった、ダニエルだった。

いまは、隣の州で、字を読むのが苦手な子どもたちの学校の、音楽の先生をしているという。

ダニエルは、居間の古いピアノの前に座った。

そして、あの発表会の曲を、ゆっくり弾いた。

弾いたあと、ダニエルは、鍵盤を見たまま、言った。

あのころ、先生だけが、ぼくを待ってくれた。

ほかの先生は、みんな、一歩で行けるところを、ぼくに一歩で行けと言った。

先生は、その一歩のあいだに、もう一歩あることを、知っていた。

どうして知ってたのか、ずっとふしぎだった。

先生も、遅かったんですね。

いま、ぼくの学校の子たちも、あいだの一歩が要るんです。

ぼくは、先生のやり方を、そのまま使っています。

ぼくが遅かったから、あいだの一歩が、どこにあるか、わかるんです。

ダニエルは、ふり返って、少し笑った。

学校では、同僚に言われます。あなたの授業は、のろすぎるって。

一年かけて、一曲も進まない子もいます。

でも、その子たちは、やめないんです。ぼくが、やめなかったみたいに。

わたしは、何も言えなかった。

窓の外で、雪が、音もなく降りつづいていた。

第五章 目が詰んでいた

ダニエルが帰ったあと、わたしは、一人でピアノの前に座った。

五十年、わたしは、自分を、のろい先生だと思ってきた。

物覚えが悪くて、何をするのも遅い女だと。

でも、そうではなかったのかもしれない。

ゆっくり覚えたから、音と音のあいだが、目に詰まっていた。

すっと覚える人は、あいだを、飛びこえていく。

わたしは、飛びこえられなかったから、あいだに、ずっといた。

そこにある、小さな石の一つ一つを、知っていた。

それは、急いで育った木には無い、細かい目だった。

夫のトムのことを、思い出した。

トムは、金物屋の店先で、ねじ一本を売るのにも、客と長いこと話していた。

あいつの店は、遅いが、何でもわかる。町の人は、そう言っていた。

わたしたちは、二人とも、遅かったのだ。

母のことも、思い出した。

十七の発表会の帰り道、母は、何も言わずに、わたしの手を取って歩いた。

あの日の母の歩き方も、ゆっくりだった。

わたしの遅さに、合わせてくれていたのだと思う。

わたしがダニエルを待てたのは、待ってもらったことが、あったからだ。

鍵盤の、黄色くなった白いところを、指でなでた。

この鍵盤も、五十年、ゆっくり弾かれてきたのだ。

エピローグ

春、ダニエルから、手紙と写真が届いた。

写真には、学校の小さなピアノの前に座った、女の子が写っていた。

九つで、字を読むのが苦手な子だという。

手紙には、こう書いてあった。

この子は、三か月かけて、ドとレのあいだを、覚えました。

先生の教室の、続きです。

わたしは、写真を、ピアノの上に立てかけた。

それから、ふたを開けて、真ん中のドを、一つだけ、弾いた。

古いピアノの音が、春の居間に、ゆっくり広がった。

ソウルミッション358

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