歩いて配る
ゆっくり育った木は、目が詰んでいた

朗読で聴く
第一章 山あいの郵便局
六十三になった。
岐阜の、山あいの小さな町に住んでいる。
二十二で町の郵便局に入り、四十年、手紙を配ってきた。
去年の春、定年でやめた。
妻の和美とは、二十八で結婚した。
娘が二人いて、どちらも名古屋で暮らしている。
わたしの受け持ちは、町はずれの、坂の多い地区だった。
谷に沿って、古い家が、ぽつりぽつりと建っている。
年寄りの一人暮らしが、多いところだ。
わたしは、その地区を、歩いて配った。
局の人たちは、みんな、バイクで回っていた。
わたしも、最初の数年は、バイクに乗った。
でも、坂の途中でバイクを止めて、郵便受けまで歩くうちに、だんだん、歩くほうが多くなった。
気がつくと、バイクは、坂の下に置いたままになっていた。
第二章 配達が遅い
歩いて配ると、どうしても、時間がかかる。
ほかの人が昼前に終わる道を、わたしは、夕方までかかった。
局長には、何度も呼ばれた。
おまえの地区だけ、いつも配達が遅い。苦情も来てる。
バイクに乗れ。歩いてたら、日が暮れる。
若い局員たちは、わたしのことを、かたつむりさん、と呼んでいた。
町の人にも、言われた。
郵便屋さん、今日も遅かったねえ。
笑って言われたが、わたしは、少し恥ずかしかった。
妻にも、言われたことがある。
あなたは、何をするのも、のろいんだから。
わたしは、言い返さなかった。
ただ、歩いていると、いろんなものが目に入った。
軒先の洗濯物。玄関の長靴。窓辺の植木鉢。
毎日、同じ家の前を通ると、そういうものが、少しずつ変わるのがわかる。
洗濯物が二日続けて出ていない。植木鉢の花が、しおれている。
そういうときは、郵便受けに入れるだけでなく、戸をたたいて、声をかけた。
それで、また、遅くなった。
郵便を、門の前で待っている年寄りもいた。
遠くの町に出た息子からの手紙を、毎月、楽しみにしている人。
年金の通知を、自分では読めないので、読んでくれと頼む人。
わたしは、縁側に腰をかけて、ゆっくり読んで聞かせた。
帰りに、柿やら、漬物やらを、持たされることもあった。
局に戻ると、袋の中の柿を見て、局長は、ため息をついた。
わたしは、自分を、仕事ののろい、要領の悪い男だと思っていた。
第三章 開かないカーテン
十二年前の冬、谷のいちばん奥の家に、トメさんというおばあさんが、一人で住んでいた。
八十を過ぎていたが、毎朝、七時には、必ず台所のカーテンを開けていた。
ご主人を早くに亡くし、息子さんは、東京で働いていた。
トメさんは、無口な人だった。
郵便を渡しても、ありがとう、とだけ言って、すぐ戸を閉める。
でも、冬になると、郵便受けの横に、いつも小さな魔法びんが置いてあった。
郵便屋さん、お茶。とだけ、紙に書いて、ふたにはってあった。
わたしは、毎日、昼ごろに、その家の前を通った。
カーテンは、いつも開いていた。
ある日、そのカーテンが、閉まっていた。
郵便受けには、前の日の新聞が、まだ入っていた。
ほかの人なら、たぶん、気づかないくらいのことだった。
カーテンが閉まっている家など、どこにでもある。
でも、わたしは、毎日、この家の前を、ゆっくり歩いて通っていた。
トメさんのカーテンが、昼に閉まっていたことは、一度もなかった。
わたしは、玄関の戸をたたいた。
返事がなかった。
裏に回ると、勝手口の戸が、少しだけ開いていた。
中に入ると、トメさんが、台所の床に倒れていた。
前の晩に転んで、立てなくなっていたのだ。
体は冷えきっていたが、まだ、息があった。
わたしは、すぐに救急車を呼んで、自分の上着をかけた。
救急車が来るまで、トメさんの手を、ずっとさすっていた。
救急車が坂を下りていくのを見送ってから、わたしは、郵便の袋をかつぎなおした。
残りの家を、また一軒ずつ、歩いて回った。
その日、わたしの配達は、夜までかかった。
局長には、また、叱られた。
第四章 トメさんの息子
去年の春、わたしが局をやめる日、一人の男の人が訪ねてきた。
五十代の、背広を着た人だった。
トメの息子です。母が、お世話になりました。
トメさんは、あのあと、五年生きたという。
孫の結婚式にも、車いすで出たそうだ。
息子さんは、局の前のベンチに座って、話してくれた。
あの冬、医者に言われたんです。あと半日遅かったら、だめだったって。
バイクで回る人だったら、カーテンなんか、見なかったと思います。
母は、病院で、ずっと言っていました。
あの郵便屋さんは、いつも、ゆっくり歩いてくる。
だから、うちのカーテンまで、見てくれたんだって。
あなたが遅かったから、母は、見つけてもらえたんです。
息子さんは、わたしの手を、両手でにぎった。
母が亡くなったあと、わたし、東京の会社をやめて、こっちに戻ってきたんです。
いま、わたしも、仕事で、年寄りの家を回っているんです。
役場で、一人暮らしの人の見回りをしています。
車で回ったほうが、たくさん回れます。でも、それでは見えないものがある。
あの冬の、魔法びんのお茶のことも、母から聞きました。
急ぎたくなると、あなたの歩き方を、思い出すんです。
わたしは、何も言えなかった。
局の前の坂道に、春の日が、まぶしく当たっていた。
第五章 目が詰んでいた
その夜、わたしは、台所で、妻と茶を飲んだ。
トメさんの息子さんの話を、妻にした。
四十年、わたしは、自分を、のろい郵便屋だと思ってきた。
要領が悪くて、いつまでも終わらない男だと。
でも、そうではなかったのかもしれない。
ゆっくり歩いたから、毎日の家の顔が、目に詰まっていた。
速く走る目は、家の前を、すべっていく。
ゆっくり歩く目は、カーテン一枚の違いに、引っかかる。
四十年分の、洗濯物や、長靴や、植木鉢が、わたしの目の中に、ぎっしり詰まっていた。
だから、たった一枚のカーテンが、見えたのだ。
ゆっくり育った木は、年輪の目が詰む、と聞いたことがある。
詰んだ木には、髪の毛ほどの細い線も、彫れるのだという。
わたしの四十年も、そういうものだったのかもしれない。
速く進んでいたら、あの細い一本は、目に入らなかった。
妻が、湯飲みを置いて、言った。
知ってたわよ。あなたが遅く帰ってくる日は、だれかの家に寄った日だって。
だから、晩ご飯を、温めなおして待ってたの。
わたしは、知らなかった。
四十年、晩ご飯が、いつも温かかったわけを。
窓の外で、谷川の音が、静かに続いていた。
エピローグ
この春、局に、新しい若い配達員が入った。
わたしの受け持ちだった地区を、回ることになったという。
ある朝、散歩の途中で、坂道を上ってくるその若者に会った。
バイクを、坂の下に置いて、歩いていた。
どうして歩いてるの、と聞くと、若者は、照れたように笑った。
局長に言われたんです。
この地区は、歩いて配れ。前の人が、そうしてたからって。
わたしは、声を出して笑った。
坂の上の家の窓で、台所のカーテンが、ちょうど開いた。
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