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三日かけた返事

ゆっくり育った木は、目が詰んでいた

三日かけた返事

朗読で聴く

第一章 のろい手

七十二になった。

鳥取の、海の見える小さな町に住んでいる。

夫は、六年前に死んだ。

子どもは、息子が一人、大阪にいる。

わたしは、昔から、何をするのも遅かった。

ご飯を食べるのも、着替えるのも、字を書くのも。

小学校では、いつも最後まで給食を食べていた。

テストは、半分しか終わらないうちに、時間が来た。

先生には、よく言われた。

あなたは、のろいねえ。もう少し、急ぎなさい。

いちばん遅かったのは、字を読むことだった。

一行を読むのに、ほかの子の三倍はかかった。

声に出さずに読もうとしても、頭の中で、一字ずつ、ゆっくり読んでしまう。

大人になっても、それは、なおらなかった。

新聞を読み終わるのは、いつも夕方だった。

小学校のころ、いつも待っていてくれたのは、よし江だった。

隣の家の、同い年の女の子だ。

わたしが給食を食べ終わるまで、よし江は、隣の席で、黙って座っていた。

帰り道も、わたしの歩く速さに合わせて、ゆっくり歩いた。

よし江は、足が速くて、何でも早い子だった。

それなのに、わたしといるときだけは、急がなかった。

中学を出ると、よし江は、隣の県の町へ働きに出た。

それから五十年あまり、わたしたちは、手紙だけでつながってきた。

第二章 返事が遅い

いちばん困ったのは、手紙だった。

手紙をもらうと、わたしは、三回、読む。

一回目は、ただ、読む。

二回目は、その人の顔を思い出しながら、読む。

三回目は、一行ずつ、指でなぞりながら、読む。

それから、返事を考える。

便箋に下書きをして、清書をする。

だから、返事を出すのは、いつも三日ほどあとになった。

友だちには、よく言われた。

あんたの返事は、忘れたころに来るねえ。

夫にも、言われた。

おまえは、のろい。はがき一枚に、何日かけとるんだ。

わたしは、笑って、ごめんね、と言った。

でも、本当は、少し恥ずかしかった。

みんなは、手紙を読んだその日に、返事を書く。

電話で、すぐにすませる人もいる。

わたしだけが、いつまでも、一通の手紙を持っていた。

自分は、何をやっても遅い、のろい人間だと思っていた。

第三章 椿の手紙

八年前の春、幼なじみのよし江から、手紙が届いた。

よし江は、隣の県の山あいの町に、一人で住んでいた。

その前の年の秋に、ご主人を亡くしていた。

手紙は、短かった。

こちらは、元気でやっています。

庭の椿が、今年もたくさん咲きました。

でも、もう、手入れもしなくていいかと思っています。

あなたも、体に気をつけて。いままで、ありがとう。

一回目に読んだとき、わたしは、元気そうでよかった、と思った。

二回目に読んだとき、よし江の顔を思い出した。

あの子は、椿の手入れを、何より大事にしていた。

三回目に、一行ずつ、指でなぞった。

もう、手入れもしなくていい。

いままで、ありがとう。

指が、そこで止まった。

いままで、という言葉が、どうしても引っかかった。

わたしは、その晩、眠れなかった。

気のせいかもしれない、と何度も思った。

電話をかけようかとも思ったが、よし江は、電話では、きっと元気な声を出す。

次の朝、一番の汽車に乗った。

山の中の小さな駅で、二度、乗りかえた。

窓の外を、まだ花の残る山が、ゆっくり流れていった。

わたしは、ひざの上の手紙を、もう一度、読んだ。

よし江の家に着いたのは、昼すぎだった。

呼んでも、返事がなかった。

裏の戸を開けると、よし江は、暗い台所に座っていた。

何日も、食べていない顔をしていた。

机の上に、病院の薬が、たくさん集めて置いてあった。

わたしは、何も聞かずに、よし江の手をにぎった。

それから、台所に立って、おかゆを炊いた。

その日から、わたしは、十日、よし江の家に泊まった。

二人で、椿の枯れた枝を、少しずつ切った。

よし江は、ほとんど口をきかなかった。

帰る日の朝、よし江は、玄関で、わたしの手を、長いことにぎっていた。

第四章 よし江の話

この春、よし江が、わたしの家に泊まりに来た。

八年たって、よし江は、すっかり元気になった。

いまは、町の公民館で、花の教室を手伝っている。

夜、二人で、縁側に座って、海の音を聞いた。

よし江が、ぽつりと言った。

あの手紙ね、何人かに出したの。

みんな、すぐに返事をくれた。

元気そうでよかった、椿きれいでしょうね、って。

わたしの書いた字の、上のほうだけ、読んでくれたのね。

あなただけ、来てくれた。

あなたは、昔から、読むのが遅かったでしょう。

一字ずつ、ゆっくり読むから、わたしが、どこで手を止めたか、わかったのね。

いままで、のところで、わたし、ずいぶん長いこと、ペンを止めていたの。

あなただけが、ゆっくり、読んでくれた。

よし江は、海のほうを見ながら、少し笑った。

いまね、わたしも、手紙を三回、読むようにしてるの。

花の教室の人たちの、ちょっとした字の乱れも、見えるようになった。

わたしは、何も言えなかった。

暗い海の上で、漁船の明かりが、ゆっくり動いていた。

第五章 目が詰んでいた

よし江が眠ったあと、わたしは、一人で縁側に残った。

七十二年、わたしは、自分をのろい人間だと思ってきた。

何をやっても遅い、急げない女だと。

でも、そうではなかったのかもしれない。

ゆっくり読んできたから、一字一字が、目に詰まっていた。

急いで読む人の目は、上のほうを、すべっていく。

ゆっくり読む目は、字と字のあいだに、引っかかる。

よし江がペンを止めたところに、わたしの指が、止まった。

それは、急いでいたら、決して届かない、細いところだった。

小学校のころ、よし江は、わたしの遅さに合わせて、隣を歩いてくれた。

五十年たって、わたしの遅さが、よし江の止まったペンに、追いついた。

ゆっくりしか進めない者は、そのぶん、ひとつの場所に長くいる。

長くいるから、細いものが、目に残る。

夫のことを、思い出した。

夫は、のろいと言いながら、わたしの返事を、待っていた。

出張先から、はがきを出すと、三日後に届くわたしの返事を、宿で待っていたという。

あとで、夫の同僚に聞いた話だ。

ゆっくりだったから、待ってくれる人も、いたのだ。

海から、冷たい風が吹いてきた。

わたしは、縁側の戸を、そっと閉めた。

台所の机には、書きかけの返事が、まだ一通、置いてあった。

エピローグ

夏、大阪の息子から、手紙が来た。

四十五になる息子は、会社で、人の上に立つ仕事をしている。

電話ばかりの息子が、手紙をよこすのは、初めてだった。

仕事のこと、孫のこと、暑さのこと。

わたしは、いつものように、三回、読んだ。

三回目に、指でなぞっていると、一行だけ、字が小さくなっていた。

ちょっと、疲れています。

わたしは、その日の夕方、息子に電話をかけた。

どうしたの、急に。手紙、もう読んだの。

読んだよ。三回。

受話器の向こうで、息子が、しばらく黙った。

それから、小さな声で、笑った。

母さん、やっぱり、のろいなあ。でも、ありがとう。

ソウルミッション358

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