きのうと、ちがう
機械のようには、ならなかった

朗読で聴く
第一章 給食室
六十三になった。
四国の、海に近い小さな市に住んでいる。
二十三のときから、小学校の給食室で働いてきた。
この春で、ちょうど四十年になる。
夫の和也は、市の水道局を定年でやめて、いまは家庭菜園をしている。
息子が一人、大阪にいる。
給食室の朝は、七時半に始まる。
大きな釜に湯を沸かし、玉ねぎを何十個も刻む。
六百人分のカレーを、大きなへらで、ゆっくりかき混ぜる。
わたしは、毎日、味を見る。
小皿に少しとって、なめてみる。
雨の日は、子どもたちの体が冷えているから、少し塩を足す。
運動会の練習の日は、汗をかいているから、もう少し足す。
玉ねぎが甘い年は、砂糖を減らす。
だから、わたしのカレーは、毎日、少しずつ味が違った。
昼過ぎになると、食缶が、教室から戻ってくる。
空っぽの日もあれば、少し残っている日もある。
残りの多い日は、何が悪かったのだろうと、帰り道に考える。
空っぽの日は、ひとりで、少しだけうれしい。
四十年、毎日、その繰り返しだった。
第二章 レシピどおりに
十年ほど前、新しい栄養士さんが来た。
まじめで、几帳面な人だった。
栄養士さんは、わたしの味見を見て、眉をひそめた。
レシピどおりに作ってください。
塩は、何グラムと決まっています。足さないでください。
毎日、同じ味になるように。機械みたいに、きっちり、お願いします。
わたしは、はい、と答えた。
でも、鍋の前に立つと、どうしても手が動いた。
小皿をなめて、ああ、今日は少し足りない、と思ってしまう。
ほかの調理員さんにも、言われた。
あんたは、いつまでも、目分量やねえ。
栄養士さんには、何度か、始末書のような紙を書かされた。
わたしは、決められたとおりにできない、だらしない人間だと思っていた。
同じことを、同じように、毎日くり返せない。
機械のようには、なれなかった。
第三章 あかりちゃんのカード
三十年前、あかりちゃんという女の子がいた。
三年生の、やせた、目の大きな子だった。
町はずれの、親と暮らせない子どもたちの施設から、学校に通っていた。
学校では、ひと言も話さなかったと、担任の先生に聞いた。
そのころ、給食には、子どもが感想を書くカードがついていた。
毎日、教室から、カードの束が給食室に戻ってくる。
おいしかった、とか、にんじんがきらい、とか書いてある。
あかりちゃんのカードには、毎日、同じことが書いてあった。
きょうのは、きのうと、ちがう。
カレーの日も、シチューの日も、みそ汁の日も。
鉛筆の、小さな、ていねいな字だった。
わたしは、それを、苦情だと思った。
毎日、味が違うと、怒られているのだと思った。
あの子にまで、わたしの目分量を見抜かれている。
わたしは、恥ずかしくて、そのカードを、だれにも見せなかった。
でも、なぜか、捨てることもできなかった。
輪ゴムでとめて、給食室の引き出しの奥にしまった。
一度だけ、あかりちゃんのカードが戻ってこない日があった。
熱を出して、学校を休んだのだと聞いた。
その日、わたしは、なぜか一日じゅう、落ち着かなかった。
次の日、また、小さな字のカードが戻ってきた。
きょうのは、きのうと、ちがう。
わたしは、苦情のはずのその字を見て、少しほっとした。
あかりちゃんは、四年生の終わりに、遠くの施設へ移っていった。
第四章 あかりちゃんの話
この三月、わたしは、給食室を辞めることにした。
最後の週、学校の事務室から電話があった。
昔の卒業生が、給食の人に会いたいと言っている、と。
給食室の裏口に、三十九になった、あかりちゃんが立っていた。
いまは、隣の県で、看護師をしているという。
あかりちゃんは、わたしの顔を見ると、少し笑った。
あのカード、覚えてますか。きょうのは、きのうと、ちがう。
わたしは、引き出しから、輪ゴムでとめた束を出した。
あかりちゃんは、それを見て、しばらく黙っていた。
施設のごはんは、毎日、業者さんから届いたんです。
いつも、同じ味でした。パンも、牛乳も、工場から来る。
だれが作ってるのか、わからなかった。
でも、給食のカレーだけは、毎日、少しずつ、違ってたんです。
ちょっとしょっぱい日も、甘い日もあった。
だれかが、きょうのわたしたちを見て、作ってるんだって、わかった。
だから、わたし、毎日、それを書いたんです。
あなたが作ってるの、わかってますって、言いたくて。
あかりちゃんは、カードの束を、指でそっとなでた。
いま、病院で、患者さんのごはんを運ぶとき、ひと言、そえるんです。
きょうは、寒いから、汁がちょっと濃いですよって。
施設にいたころの話を、あかりちゃんは、少しだけした。
夜、布団の中で、明日のカレーはどんな味だろうと考えたこと。
しょっぱい日は、きょうは雨だったからかな、と思ったこと。
それが、あのころの、ただ一つの楽しみだったこと。
わたしは、何も言えなかった。
給食室の大きな釜から、湯気が、静かに上がっていた。
第五章 機械のようには、ならなかった
その日、家に帰ってから、わたしは、夫に、あかりちゃんの話をした。
四十年、わたしは、自分をだらしない調理員だと思ってきた。
レシピどおりにできない、目分量の人間だと。
でも、そうではなかったのかもしれない。
わたしの味は、機械のようには、ならなかった。
毎日、少しずつ、違った。
その違いが、あの子には、だれかが今日ここにいる、という印だった。
毎日、味が同じなら、だれが作っても同じだ。
だれも作っていないのと、同じだ。
少しずつ違ったから、あの子は、わたしがいるとわかった。
母のことを、思い出した。
母も、計りを使わない人だった。
同じ煮物を作っても、毎回、少しずつ味が違った。
子どものころ、わたしは、それを、母がいいかげんだからだと思っていた。
でも、母は、その日の父の顔色や、わたしたちの声を聞いて、味を変えていたのだろう。
わたしの目分量は、母の台所から、来ていたのだ。
夫が、菜園でとれたきゅうりを切りながら、言った。
おまえの味噌汁も、毎日、ちょっとずつ違うけんな。
四十年、毎日、今日のはどうかなと思って飲みよった。
わたしは、知らなかった。
夫は、そんなこと、一度も言ったことがなかった。
窓の外で、夕方の防災無線が、静かに鳴っていた。
エピローグ
最後の給食の日、メニューは、カレーだった。
わたしは、いつものように、小皿にとって、なめてみた。
春の玉ねぎが甘かったので、砂糖を少し減らした。
栄養士さんは、それを見ていたが、何も言わなかった。
その朝、栄養士さんには、あかりちゃんの話をしてあった。
栄養士さんは、しばらく黙って、カードの束を見ていた。
昼休み、四年生の男の子が、空になった食缶を返しに来た。
おばちゃん、きょうのカレー、いつもと、ちょっとちがう。
わたしは、どうちがう、と聞いた。
うーん、わからんけど、うまかった。
男の子は、そう言って、走っていった。
わたしは、声を出して笑った。
栄養士さんも、うしろで、小さく笑っていた。
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