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廊下の声

粒の下は、噛まれなかった

廊下の声

朗読で聴く

第一章 外科病棟

六十になった。

東北の、小さな市の病院で、看護師をしてきた。

二十二で勤めはじめて、三十八年になる。

この三月で、定年だ。

ほとんどの年を、外科の病棟で過ごした。

夫とは、四十で別れた。

一人息子は、仙台で働いている。

わたしは、病棟で、いちばん口うるさい看護師だった。

患者さんにも、よく言った。

お水を飲んでください。まだ起き上がらないでください。

若い看護師には、もっと言った。

手を洗って。もう一回。

記録が抜けてる。何度言ったらわかるの。

ナースコールは、三回鳴る前に出なさい。

点滴の落ちる速さを、もう一度、見てきなさい。

廊下を歩けば、わたしの声が、どこかで聞こえた。

一つ一つは、小さなことだった。

でも、一日に何十回も、くり返し言った。

わたし自身も、新人のころ、そういう先輩に育てられた。

あのころは、その人が、こわくてしかたがなかった。

第二章 小姑と呼ばれて

若い看護師たちは、わたしのことを、小姑と呼んでいた。

更衣室で、そう話しているのを、聞いたことがある。

また、あの人に言われた。もう、うるさくて、いや。

わたしは、聞こえなかったふりをして、戸を閉めた。

患者さんにも、言われたことがある。

あんたは、母ちゃんより、うるさいな。

笑って言われたが、少し胸にこたえた。

あのころ、外科には、村井先生という部長がいた。

腕のいい外科医だったが、看護師をよく怒鳴った。

おまえは、何年看護師をやってるんだ。

ちょっとした間違いでも、廊下に響く声で怒鳴った。

怒鳴られた新人は、たいてい、泣いた。

何人もの若い子が、それで病院をやめていった。

わたしは、村井先生にも、うるさく言った。

先生、手を洗ってから、患者さんに触ってください。

先生、その書き方では、夜勤の子が読めません。

先生は、いつも、また、あんたか、という顔をした。

仙台の息子にも、電話で、よく言われた。

母さんは、家でも病院でも、同じだな。

わたしは、病棟の、口うるさい、きらわれものだった。

看護師として、やさしくない人間だと、思っていた。

第三章 先に言った

二十年前の春、沙織さんという新人が、病棟に来た。

二十二の、小柄で、声の小さい子だった。

仕事は丁寧だったが、手が遅く、よく間違えた。

ある朝、沙織さんが、点滴の速さを間違えた。

すぐに気づいて直したので、患者さんには、何もなかった。

でも、村井先生の回診が、十分後に来ることになっていた。

わたしは、廊下で、沙織さんを呼び止めた。

そして、ほかの看護師にも聞こえる声で、小言を言った。

何度言ったらわかるの。点滴は、二回見なさい。

沙織さんは、うつむいて、くちびるをかんでいた。

回診に来た村井先生に、わたしは、先に言った。

先生、さっきの点滴のことは、もう、わたしが注意しました。

先生は、わたしの顔を見て、そうか、とだけ言った。

そして、沙織さんには、何も言わずに、次の部屋へ行った。

そういうことが、何度もあった。

沙織さんが記録を抜かしたときも。

薬の数を、まちがえかけたときも。

先生が気づく前に、わたしが先に、うるさく言った。

夏の夜勤で、沙織さんと二人になったことがある。

夜中の二時、ナースコールが鳴った。

沙織さんは、一回目で、受話器を取った。

わたしが、三回鳴る前に、と毎日言っていたからだ。

患者さんの息が、急に苦しくなっていた。

すぐに当直の先生を呼んで、大事にはならなかった。

朝、わたしは、沙織さんに、また小言を言った。

記録の時刻が、一分ずれてる。書き直しなさい。

ほめる言葉は、どうしても、口から出てこなかった。

沙織さんは、一度、更衣室で泣いていた。

あの人、わたしのこと、きらいなんだと思う。

同期の子に、そう話していた。

沙織さんと同じ年に入った二人は、半年でやめた。

二人とも、村井先生に、何度も怒鳴られていた。

第四章 沙織さんの話

この三月、病棟で、わたしの送別会が開かれた。

小さな会議室に、看護師たちが、集まってくれた。

最後に、看護師長が、前に立った。

四十二になった、沙織さんだった。

沙織さんは、花束を持ったまま、しばらく黙っていた。

それから、わたしのほうを見て、言った。

新人のころ、わたし、先輩が、こわくてしかたがなかった。

毎日、廊下で、うるさく言われて。

でも、看護師長になって、わかったんです。

あのころ、わたし、村井先生に、一度も怒鳴られなかった。

同期の二人は、先生に何度も怒鳴られて、やめました。

わたしが怒鳴られなかったのは、先輩が、いつも先に言ってくれたから。

先輩がもう注意しましたって言うと、先生は、黙ったんです。

先輩の小言は、うるさかったけど、あとに残らなかった。

次の日には、もう、平気でした。

あの夏の夜のナースコールも、覚えてます。

三回鳴る前に、って、先輩の声が、頭の中で鳴ったんです。

先輩の小言の下にいた子だけ、残ったんです。

会議室が、しんとした。

沙織さんは、少し笑って、続けた。

いま、わたしも、新人に、うるさいって言われてます。

更衣室で、小姑って呼ばれてるのも、知ってます。

わたしは、何も言えなかった。

花束を受け取る手が、少し、ふるえていた。

第五章 粒の下は、噛まれなかった

その夜、わたしは、一人で病院の廊下を歩いた。

夜勤の看護師が、ナースコールに走っていった。

三十八年、わたしは、自分を口うるさい看護師だと思ってきた。

やさしくない、きらわれものの先輩だと。

でも、そうではなかったのかもしれない。

小言は、一つ一つは、小さな粒のようなものだった。

毎日、毎日、若い子の上に、かぶせるように言った。

その粒がかぶさっていたところには、先生の怒鳴り声が届かなかった。

小言は、うるさい。でも、人を、やめさせはしない。

怒鳴り声は、人を、やめさせる。

怒鳴り声が来る前に、小言で、若い子をおおっていたのだ。

わたしを育てた先輩のことを、思い出した。

あのころの部長も、よく怒鳴る人だった。

でも、わたしは、一度も怒鳴られなかった。

いつも、先輩が、先にわたしをしかっていたから。

わたしも、あの人の小言の下にいたのだ。

そして、それを、そのまま、沙織さんに渡していた。

沙織さんは、それを、新人の子に渡している。

廊下の窓の外で、雪が、静かに降りはじめていた。

エピローグ

五月、ひざの検査で、わたしは病院の外来に来た。

帰りに、外科の病棟の前を通った。

廊下の奥から、聞きなれた声が、聞こえてきた。

記録が抜けてる。何度言ったらわかるの。

沙織さんが、若い看護師を、呼び止めていた。

そこへ、若い外科の先生が、早足でやってきた。

沙織さんは、先生のほうを向いて、言った。

先生、さっきのことは、もう注意しました。

先生は、そうか、とだけ言って、病室に入っていった。

若い看護師は、うつむいて、くちびるをかんでいた。

わたしは、廊下の角で、そっと笑った。

あの子も、いつか、わかる日が来るだろう。

病院の前の桜は、もう、葉だけになっていた。

ソウルミッション358

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