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母の小言

粒の下は、噛まれなかった

母の小言

朗読で聴く

第一章 口うるさい母

七十二になった。

北陸の、小さな町に住んでいる。

二十六で嫁いで、この家に来た。

夫の茂は、二年前に死んだ。

町の高校で、数学を教えていた人だった。

一人娘の美咲は、四十五になる。

東京で働いていて、中学一年の娘がいる。

わたしは、口うるさい母だった。

自分でも、そう思う。

朝、美咲が起きてくると、もう始まっていた。

顔を洗いなさい。髪をとかしなさい。

ハンカチは持ったの。上着を着ていきなさい。

学校から帰ってくると、また始まった。

手を洗いなさい。宿題は終わったの。

テレビは一時間まで。早くお風呂に入りなさい。

夜、布団に入るまで、わたしの声は止まなかった。

一つ一つは、小さなことだった。

でも、毎日、毎日、かぶせるように言った。

わたしの母も、そういう人だった。

気がついたら、母と同じ声で、同じことを言っていた。

第二章 うるさい、と言われて

美咲は、小学校の高学年になると、耳をふさぐようになった。

うるさい。わかってるってば。

中学生になると、返事もしなくなった。

友だちのお母さんは、何も言わないんだって。

そう言われたこともある。

近所の人にも、言われた。

あんたのところは、いつも声が聞こえるね。

笑って言われたが、わたしは、少し恥ずかしかった。

夫は、わたしの小言を、いつも黙って聞いていた。

夫は、口数の少ない人だった。

でも、たまに口を開くと、その言葉は刺さった。

こんな点で、恥ずかしくないのか。

おまえは、何をやっても、中途半端だな。

夫は、それを、静かな声で言った。

大きな声で怒鳴られるより、ずっと、こたえる言い方だった。

嫁いだばかりのころ、わたしも、何度も言われた。

言われた言葉は、何年たっても、消えなかった。

夜中に、ふと思い出して、眠れなくなることもあった。

美咲は、十八で、東京の大学に出ていった。

電話をかけても、いつも短かった。

お母さんの声を聞くと、疲れる。

一度、そう言われた。

わたしは、口うるさい母親だった。

娘にうるさいと思われたまま、年を取るのだと思っていた。

第三章 先に言った

美咲が中学二年の冬、成績表をもらってくる日があった。

数学の成績が、ひどく下がっていた。

わたしは、玄関で、美咲から成績表を取り上げた。

そして、靴も脱がせずに、三十分、小言を言った。

何をしてたの。こんな点で、どうするの。

美咲は、泣きながら、二階へ上がっていった。

夜、夫が帰ってきた。

夫は、ちゃぶ台の上の成績表を、手に取った。

わたしは、急いで言った。

もう、わたしが、さんざん言っておきましたから。

夫は、しばらく、成績表を見ていた。

それから、何も言わずに、それを置いた。

そういうことが、何度もあった。

美咲が、部活をやめたときも、そうだった。

中学三年の春、美咲は、二年続けたバレー部を、急にやめた。

わたしは、その日の夕方、台所で、一時間、小言を言った。

どうして相談しないの。続けるって言ったでしょう。

夜、夫が帰ってくると、わたしは、また先に言った。

もう、わたしが、しっかり言っておきましたから。

夫は、そうか、とだけ言って、新聞を広げた。

高校の受験に、一つ落ちたときも、同じだった。

夫が知る前に、わたしが先に、うるさく言った。

美咲が結婚したい人を連れてきた日も、そうだった。

わたしは、その人に、次から次へと聞いた。

ちゃんと食べてるの。お酒は飲みすぎないの。

夫は、最後に、よろしく、とだけ言った。

なぜ、そうしていたのか、自分でもよくわからない。

ただ、夫が口を開く前に、わたしの口が動いていた。

わたしは、それを、自分が口うるさいせいだと思っていた。

気が短くて、黙っていられない、損な性分だと。

第四章 美咲の話

この春、夫の三回忌で、美咲が帰ってきた。

法事が終わった夜、二人で台所に立った。

美咲が、皿をふきながら、ぽつりと言った。

お母さん、わたし、ずっと、うるさいと思ってた。

わたしは、笑って、知ってるよ、と言った。

でもね、結衣が中学生になって、わかったの。

結衣は、美咲の娘だ。

うちの人も、ときどき、きついことを言うのよ。

結衣がそれで黙りこむのを見てて、思い出したの。

お父さんの言葉、ほんとうに、こわかった。

一回言われると、ずっと、頭に残るの。

でも、わたし、お父さんに、まともに言われたこと、ほとんどないの。

お父さんが何か言う前に、いつも、お母さんが言ってたから。

お母さんが、もう言いましたって言うと、お父さんは黙った。

お母さんの小言は、うるさかったけど、あとに残らなかった。

夜には、もう、忘れてた。

お母さんの小言の下に、いたから。

わたし、お父さんの言葉に、噛まれずに済んだんだと思う。

美咲は、ふいた皿を、棚にしまった。

それでね、わたしも、結衣に、うるさく言ってるの。

上着は着たの、ハンカチは持ったの、って。

結衣に、おばあちゃんみたい、って言われた。

わたしは、何も言えなかった。

流しの水の音だけが、していた。

第五章 粒の下は、噛まれなかった

美咲が寝たあと、わたしは、一人で台所に残った。

四十五年、わたしは、自分を口うるさい母親だと思ってきた。

黙っていられない、損な性分だと。

でも、そうではなかったのかもしれない。

小言は、一つ一つは、小さな粒のようなものだった。

毎日、毎日、娘の上に、かぶせるように言った。

その粒がかぶさっていたところには、夫の言葉が届かなかった。

小言は、うるさい。でも、刺さらない。

夫の言葉は、静かで、刺さった。

刺さる言葉が来る前に、刺さらない言葉で、娘をおおっていたのだ。

母のことを、思い出した。

父は、酒を飲むと、きついことを言う人だった。

母は、いつも、父より先に、わたしをしかった。

わたしは、母を、ただのうるさい人だと思っていた。

でも、わたしも、母の小言の下にいたのだ。

そして、そのかぶせ方を、そのまま、美咲に渡していた。

美咲は、それを、結衣に渡している。

うるさい声は、三代、続いていた。

夫の言葉にも、きっと、夫なりのわけがあったのだろう。

夫も、厳しい父親に育てられた人だった。

でも、その言葉は、美咲には届かなかった。

届く前に、わたしの小言が、かぶさっていたから。

わたしは、台所の電気を消して、少しだけ泣いた。

窓の外で、雪どけの水が、雨どいを鳴らしていた。

エピローグ

夏休み、美咲が、結衣を連れて遊びに来た。

結衣は、十二になった。

夕方、結衣が、近くの川まで出かけようとした。

わたしは、玄関で、声をかけた。

帽子をかぶりなさい。水筒は持ったの。暗くなる前に帰るのよ。

結衣は、うるさいなあ、と言った。

でも、帽子を、ちゃんとかぶっていった。

水筒も、首からさげていた。

門のところで、結衣は、ふり返って言った。

おばあちゃん、ママと、同じこと言ってる。

台所で、美咲が、声を出して笑った。

お母さん、それ、わたしが今朝、結衣に言ったのと、同じ。

わたしも、笑った。

戸口の外で、蝉が、うるさいほど鳴いていた。

ソウルミッション358

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