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ブイの線

縁が、少しにじんでいた

ブイの線

朗読で聴く

第一章 ロブスターの海

七十三になった。

カナダの東の端、ノバスコシアの小さな漁村に住んでいる。

十八で父の船に乗り、五十五年、ロブスターを獲ってきた。

妻のエレンとは、四十八年いっしょにいる。

この村では、漁師ごとに、かごを沈める場所が決まっている。

海の上に線はないが、だれもが、自分の線を知っている。

かごの位置には、色をぬったブイを浮かべる。

ブイの色で、だれのかごか、ひと目でわかる。

となりの漁師のブイとのあいだが、境目だ。

漁師たちは、その境目を、きびしく守る。

一メートルでも越えたら、けんかになる。

昔は、ブイの綱を切られたこともあったという。

わたしのブイは、白と青だった。

父の代から、同じ色だ。

漁の季節は、冬の終わりから始まる。

夜明け前に港を出て、凍った手で綱を引き、かごを一つずつ上げる。

かごの中のロブスターを数えて、小さいものは海に返す。

エサを入れ直して、また沈める。

それを、毎朝、何十回もくり返す。

第二章 線の甘い男

わたしのブイの線は、いつも、少しあいまいだった。

潮に流されて、ブイがとなりの場所にずれても、あまり気にしなかった。

となりのブイが、こちらに入ってきても、文句を言わなかった。

漁師仲間には、よく笑われた。

あいつは、線が甘い。

あれじゃあ、そのうち、場所を取られるぞ。

港の酒場で、そう言われているのを、何度も聞いた。

父も、生きていたころ、わたしを叱った。

漁師は、自分の線を守れなきゃ、だめだ。

ある年、向こうどなりの男のブイが、嵐で、わたしの場所の真ん中まで流れてきた。

ほかの漁師なら、綱を切って、流してしまうところだった。

わたしは、ブイを拾って、その男の場所まで、船で運んで戻した。

男は、礼も言わずに、それを受け取った。

あとで港で、あいつはお人よしだ、と笑っていたらしい。

わたしは、言い返さなかった。

ただ、海の上で、そんなにきっちり線を引く気になれなかった。

海は、潮で動く。ロブスターも、線を知らない。

わたしは、自分を、だらしのない漁師だと思っていた。

はっきりしない、ふちのぼやけた男だと。

第三章 となりの場所

三十年前の冬、となりの漁師のジョンが、海で死んだ。

嵐の日に、ひとりで船を出したのだ。

ジョンには、妻のメアリーと、十四の息子のカラムがいた。

ジョンの場所は、村の決まりで、だれかに譲られることになった。

大きな船を持つ男たちが、その場所を欲しがった。

メアリーは、場所を手放すしかなかった。

カラムは、まだ船を持てる年ではなかった。

次の春、わたしは、ブイの線を、少しだけ、となりの側へ広げた。

そして、カラムに言った。

うちの場所の、端のほうで、かごを沈めていいぞ。

わたしのかごのつもりで、やればいい。

カラムは、古い小さなボートで、毎朝、わたしの場所の端にかごを沈めた。

ブイは、わたしと同じ、白と青にした。

どこまでがわたしのかごで、どこからがカラムのかごか、だれにもわからなかった。

はじめの朝、カラムのかごには、ロブスターが三匹しか入っていなかった。

カラムは、くちびるをかんで、それを桶に入れた。

わたしは、自分のかごから二匹、黙ってカラムの桶に移した。

潮が流したんだ。おまえのかごのだよ。

うそだと、カラムにもわかっていたと思う。

でも、カラムは、何も言わなかった。

漁師仲間は、また笑った。

あいつ、とうとう、自分の線もわからなくなった。

エレンだけは、何も言わずに、カラムの弁当を毎朝、わたしの弁当といっしょに作ってくれた。

第四章 カラムの話

この秋、わたしは、船を下りることにした。

腰が悪くなって、重いかごを引き上げられなくなった。

最後の漁の日、港に戻ると、桟橋に、大きな漁船が一隻、つけていた。

船の上から、四十四になったカラムが、手を振っていた。

カラムは、いまでは、村でいちばん大きな船の船長だ。

桟橋で、カラムは、わたしの手を強くにぎった。

あのころ、おれ、知らなかったんだ。

村の決まりでは、よその場所にかごを沈めたら、取り上げられるって。

おじさんの線が、はっきりしてたら、おれは、海に出られなかった。

おじさんのブイの線が、にじんでたから、おれのかごは、そこにいられた。

母さんは、あの三年で、借金を返せたんだ。

それに、あの最初の朝の二匹。

あれ、おじさんのかごのだって、おれ、わかってたよ。

でも、うれしかった。自分のかごのだって、言ってもらえたのが。

あの朝から、おれ、漁師になるって決めたんだ。

カラムは、海のほうを見た。

いま、おれの場所のとなりに、若いやつがいるんだ。

親父さんが病気で、ひとりで小さなボートを出してる。

おれ、ブイの線、少し甘くしてる。

仲間には、カラムは線が甘いって、笑われてるよ。

カラムは、そう言って、少し笑った。

わたしは、何も言えなかった。

桟橋の下で、白と青のブイが、波にゆれていた。

第五章 ふちが、少しにじんでいた

その夜、台所で、エレンが紅茶をいれてくれた。

わたしは、カラムの話を、エレンにした。

五十五年、わたしは、自分をだらしのない漁師だと思ってきた。

線の甘い、ふちのぼやけた男だと。

でも、そうではなかったのかもしれない。

わたしの線は、にじんでいた。

にじんだ分だけ、となりの子どもが、海に出られた。

きっちり線を引いていたら、カラムのかごは、どこにも沈められなかった。

にじんだふちの中に、カラムの場所があったのだ。

そして、そのにじみは、カラムの線にも、しみていた。

海の上の線は、もともと目に見えない。

目に見えない線を、どれだけきっちり守っても、ロブスターは、それを知らない。

知っているのは、そこにかごを沈める人間のほうだけだ。

線を少し甘くしておけば、その分だけ、だれかがかごを沈められる。

エレンは、カップを置いて、言った。

わたしは、知ってたわよ。

あなたの線が甘いのは、だらしないからじゃない。

毎朝、カラムの弁当を作りながら、わかってた。

わたしは、笑った。

メアリーさんが、あのころ、毎年クリスマスに、手編みの手袋を届けてくれたでしょう。

あれは、カラムのかごの分のお礼だったのよ。

わたしは、その手袋を、毎年、船で使っていた。

ただの近所の親切だと思っていた。

窓の外で、港の灯が、黒い海にぼんやりとにじんでいた。

エピローグ

春、カラムが、小さな女の子を連れて、家に来た。

娘のアイラで、七つだという。

アイラは、物置にしまった古いブイを見つけて、目をかがやかせた。

白と青の、色のはげたブイだった。

これ、おじいちゃんのブイ。

そうだよ。

アイラは、ブイを抱えて、桟橋まで走っていった。

海に浮かべてみたいと言うので、短い綱をつけて、そっと水に落とした。

ブイは、波にゆられて、少しずつ、となりの船の下のほうへ流れていった。

アイラが、あわてて綱を引こうとした。

わたしは、その手を、そっと止めた。

いいんだ。少しくらい、となりへ行っても。

カラムが、うしろで、声を出して笑った。

ソウルミッション358

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