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下の紙

縁が、少しにじんでいた

下の紙

朗読で聴く

第一章 書道教室

六十四になった。

瀬戸内の、小さな城下町に住んでいる。

二十四のときから、家の二階で、子どもの書道教室を開いてきた。

この春で、ちょうど四十年になる。

夫の正雄は、五年前に死んだ。

子どもは、いない。

夫は、町の郵便局に勤めていた。

土曜の午後は、いつも一階で新聞を読みながら、二階の子どもたちの声を聞いていた。

毎週、土曜の午後に、十人ほどの子どもが来る。

長い机を二つ並べて、墨をすって、半紙に字を書く。

書き終わった半紙を、子どもたちが、わたしの机に持ってくる。

わたしは、朱墨をふくませた筆で、直しを入れる。

はねが弱いところに、小さく線を足す。

よく書けたところには、丸をつける。

いちばんいい字には、よし、と書く。

わたしの朱は、いつも、少しにじんだ。

筆に、たっぷり朱をふくませるくせがあった。

師匠には、若いころ、何度も言われた。

あなたの朱は、にじみすぎる。直しは、きりっと入れなさい。

でも、どうしても、なおらなかった。

第二章 にじむ先生

わたし自身の字も、そうだった。

筆の運びが、ゆっくりすぎるのだという。

墨が紙にしみて、線のふちが、いつも少しぼやけた。

展覧会に出しても、賞は取れなかった。

審査の先生には、線がにじんで、はっきりしない、と書かれた。

教室の子どもたちの親にも、言われた。

先生の直し、にじんで、どこを直されたのか、わからない。

隣町に、駅前の大きな書道教室ができた。

そこの先生の朱は、細くて、きりっとしていた。

子どもたちは、少しずつ、そちらへ移っていった。

わたしも、変わろうとしたことがある。

一年ほど、朱を少なくふくませて、きりっと直しを入れてみた。

線は細くなったが、どうしても、ぎこちなかった。

子どもたちの字も、なぜか、こわばっていった。

ある日、小さな男の子が、半紙を見て、ぽつりと言った。

先生の丸、なんか、こわい。

わたしは、その日の夜、また、たっぷり朱をふくませた筆にもどした。

わたしは、自分を、はっきりしない人間だと思っていた。

字も、直しも、人とのつきあいも。

何もかも、ふちがぼやけていて、きちんと線を引けない人間だと。

夫の正雄は、そんなわたしを、いつも笑っていた。

おまえの字は、やわらかくていい。

でも、夫は、書道のことは何も知らなかった。

第三章 由美ちゃん

三十年ほど前、由美ちゃんという女の子が、教室に来ていた。

小学四年の、おとなしい子だった。

いつも、いちばん端の席に座って、だれとも話さなかった。

ある日、半紙を持ってきた由美ちゃんの手首に、あざが見えた。

わたしは、何も聞かなかった。

聞いても、答えないだろうと思った。

その日から、わたしは、由美ちゃんの半紙にだけ、少し多めに朱をふくませた。

よし、と書く字を、いつもより、ゆっくり書いた。

朱は、いつもよりもっと、にじんだ。

由美ちゃんは、何も言わずに、半紙を持って帰った。

ふしぎなことに、由美ちゃんは、自分の半紙の下に敷いた紙も、必ず、たたんで持って帰った。

ほかの子は、下の紙は、くずかごに捨てていく。

汚れているから、持って帰らなくていいのよ、と言うと、由美ちゃんは、首を振った。

わたしは、絵でも描くのだろうと思って、それ以上、聞かなかった。

由美ちゃんの字は、少しずつ、大きく、のびのびしていった。

一年ほどして、由美ちゃんの家は、遠くに引っ越していった。

さよならも、言わないままだった。

わたしは、由美ちゃんのことを、ときどき思い出した。

あの子の家で、何があったのか。

わたしの朱は、何かの役に立ったのか。

わからないまま、三十年がたった。

第四章 下の紙

この春、四十年の教室を閉めることにした。

最後の土曜日、教室の片づけをしていると、玄関で声がした。

四十くらいの女の人が、紙の束を抱えて立っていた。

先生、由美です。覚えていますか。

由美ちゃんは、二階の教室に上がると、紙の束を、机の上に広げた。

それは、半紙ではなかった。

半紙の下に敷く、うすい練習用の紙だった。

一枚一枚に、うすい赤のしみが、ついていた。

丸や、線や、よし、の形をした、ぼやけたしみだった。

先生の朱、いつも、にじんで、下の紙まで、しみてたんです。

由美ちゃんは、紙を一枚、そっと持ち上げた。

半紙は、家に持って帰ると、父に破られました。

字なんか書いて、何になる、って。

でも、下の紙は、だれも気にしなかった。

ただの、汚れた紙だから。

わたし、それを、全部、ランドセルの底に隠して持って帰ってたんです。

夜、布団の中で、そのしみを、ずっと見てました。

先生の、よし、が、うすく、赤く、しみてた。

だから、わたし、なんとか、やっていけたんです。

由美ちゃんは、いま、遠くの町で、小学校の先生をしているという。

子どものノートに丸をつけるとき、わざと、赤ペンを強く押すんです。

下のページまで、少し、しみるように。

由美ちゃんの指先には、赤ペンのあとが、少しついていた。

わたしは、何も言えなかった。

机の上の、うすい赤のしみを、ただ、見ていた。

第五章 ふちが、少しにじんでいた

由美ちゃんが帰ったあと、わたしは、一人で教室に残った。

机の上に、下の紙が、何十枚も並んでいた。

四十年、わたしは、自分をはっきりしない人間だと思ってきた。

字のふちも、直しの線も、きちんと引けない人間だと。

でも、そうではなかったのかもしれない。

わたしの朱は、にじんでいた。

にじんだ分が、下の紙まで、しみていた。

半紙が破られても、下の紙には、残っていた。

きりっとした朱なら、半紙の上だけで、終わっていただろう。

にじんでいたから、だれも見ない紙にまで、届いていたのだ。

夫の言葉を、思い出した。

おまえの字は、やわらかくていい。

あの人は、何も知らないと思っていた。

でも、あの人は、わたしの字を、毎日、いちばん近くで見ていたのだ。

わたしは、朱墨の筆を取って、練習用の紙に、丸を一つ書いた。

朱は、ゆっくり、紙のふちから、外へにじんでいった。

にじんだふちは、はっきりしない。

でも、はっきりしないところから、となりの紙へ、しみていく。

四十年、わたしの丸は、何枚の下の紙に、しみていたのだろう。

エピローグ

夏、由美ちゃんから、手紙が届いた。

中には、子どもたちのノートのページが、一枚入っていた。

たどたどしい字の上に、大きな赤い丸が一つ。

その丸は、少し、にじんでいた。

裏返すと、次のページに、うすい赤の輪が、しみていた。

手紙の最後に、由美ちゃんの字があった。

先生のまねをしたら、子どもに笑われました。

先生の丸、にじんでるよ、って。

でも、その子、次の週から、自分のノートの下に、うすい紙を一枚はさんでくるようになりました。

先生の丸が、下までしみるのを、楽しみにしてるみたいです。

わたしは、声を出して笑った。

それから、手紙を、古い半紙の束の上にのせた。

夫の写真に、手紙を見せてから、そっと引き出しにしまった。

窓の外で、夕方の鐘が鳴っていた。

ソウルミッション358

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