店の奥
縁が、少しにじんでいた

朗読で聴く
第一章 自転車屋
七十になった。
北関東の、古い商店街のはずれに住んでいる。
二十五で父の店を継いで、四十五年、小さな自転車屋をやってきた。
店の奥は、そのまま家の居間につながっている。
のれん一枚で、仕切ってあるだけだ。
店先で空気を入れていると、奥から、みそ汁のにおいがしてくる。
居間でテレビを見ていると、店先から、すみません、と声がかかる。
どこまでが店で、どこからが家なのか、わたしにも、よくわからなかった。
父の代から、ずっとそうだった。
父は、よく言っていた。
自転車屋は、町の人の足を直す商売だ。
足を直しに来た人を、戸口で待たせるもんじゃない。
父も、近所の年寄りを奥に上げて、よく将棋をさしていた。
妻のかず子は、それを、ずっといやがっていた。
あなたには、けじめというものがない。
結婚して四十年、何度そう言われたかわからない。
わたしは、そのたびに、そうだなあ、と笑ってごまかした。
第二章 けじめのない店
子どもたちが、よく店に来た。
パンクを直してもらいに来て、そのまま帰らない子がいた。
店の奥の居間に上がりこんで、テレビを見ている子がいた。
こたつで、宿題をしている子もいた。
わたしは、追い出さなかった。
そこにいたいなら、いればいい、と思った。
修理代も、きちんと取らなかった。
小さな子には、百円でいい、と言った。
お金を持っていない子には、今度でいい、と言った。
その今度が、来なかった子も、たくさんいた。
大雪で、町じゅうが停電した冬の夜もあった。
店の石油ストーブだけが、赤く燃えていた。
気がつくと、近所の人たちが、店の奥に集まっていた。
年寄りも、子どもも、となりの魚屋の夫婦も。
かず子は、ありったけの毛布を出して、お湯をわかした。
朝まで、だれも帰らなかった。
かず子は、帳面を見て、ため息をついた。
店なのか、託児所なのか、わからない。
息子の健太は、子どものころ、それが、はずかしかったらしい。
友だちが、勝手に家に上がってくる。
自分の部屋の前まで、知らない子が来る。
父さんの店は、どこまでが店か、わからない。
健太は、そう言って、店を継がなかった。
いまは、東京で、会社に勤めている。
わたしは、自分を、だらしのない人間だと思っていた。
店と家の境も、仕事とそうでないものの境も、引けない人間だと。
ふちのはっきりしない、にじんだような人間だと。
第三章 店を閉める日
この春、店を閉めることにした。
ひざが悪くなって、しゃがんで修理をするのがつらくなった。
商店街の、ほかの店も、もうほとんど閉まっている。
最後の日、かず子と二人で、店を片づけた。
棚の奥から、古い帳面が何冊も出てきた。
今度でいい、と書いた名前が、ずらりと並んでいた。
かず子は、それを見て、また、ため息をついた。
これ、全部、来なかったのよね。
わたしは、笑うしかなかった。
昼すぎから、何人もの人が、店の前で足を止めた。
自転車を押した年寄りも、ベビーカーの若い母親も。
ここ、閉めちゃうの。小さいころ、よく来たのに。
顔を覚えていない人もいた。
でも、みんな、のれんの奥を、なつかしそうにのぞいていった。
夕方、シャッターを半分下ろしたところで、だれかが、店の前に立った。
四十くらいの、背の高い男の人だった。
作業服を着て、首にタオルを巻いていた。
おじさん、店、閉めるって、聞いて。
男の人は、少し照れたように、頭をかいた。
ぼく、小学生のころ、毎日ここに来てた、高橋です。
第四章 高橋くんの話
思い出した。
いつも、パンクもしていない自転車を押して、店に来ていた子だった。
来ると、黙って居間に上がって、こたつで宿題をしていた。
夕飯どきになっても、帰らなかった。
かず子が、みそ汁をよそってやったこともあった。
高橋くんは、店の奥の居間を、しばらく見ていた。
あのころ、ぼくの家は、ちょっと、ややこしくて。
父親が、酒を飲むと、暴れたんです。
家に、帰りたくなかった。
でも、ほかの家には、上がれなかった。
よその家には、ちゃんと玄関があって、ちゃんと、よその家だった。
ここだけは、ちがった。
店から、のれん一枚で、そのまま居間だった。
どこからが家なのか、わからなかった。
だから、ぼく、はいれたんです。
高橋くんは、少し笑った。
おじさんの店は、どこからでも、はいれた。
いま、ぼく、町の児童館で働いてるんです。
入り口のドアは、いつも開けておいてます。
事務室と、遊ぶ部屋の境も、カーテン一枚にしてます。
上の人には、けじめがないって、よく言われますけど。
高橋くんは、作業服の胸から、封筒を出した。
あのころの修理代です。今度でいいって、言われたままだったから。
わたしは、首を振った。
帳面に、高橋くんの名前は、なかったはずだ。
あの子のは、はじめから、書いていなかった。
それなら、児童館の子どもたちの、おやつにでもしてくれ。
高橋くんは、少し困った顔をして、それから、うなずいた。
わたしは、何も言えなかった。
後ろで、かず子が、そっと目をふいていた。
第五章 ふちが、少しにじんでいた
高橋くんが帰ったあと、わたしは、店の奥の居間に座った。
かず子が、黙って、お茶をいれてくれた。
四十五年、わたしは、自分をだらしのない人間だと思ってきた。
店と家の境も引けない、けじめのない人間だと。
でも、そうではなかったのかもしれない。
境がにじんでいたから、高橋くんは、入ってこられた。
ちゃんとした玄関があったら、あの子は、はいれなかった。
のれん一枚だったから、こたつまで、来られたのだ。
そして、にじんだ分は、ここで終わらなかった。
高橋くんの児童館の、カーテン一枚の向こうまで、しみていた。
父の将棋盤から、わたしのこたつへ。
わたしのこたつから、高橋くんの児童館へ。
かず子が、湯のみを置いて、ぽつりと言った。
わたし、ずっと文句を言ってたけど。
あの子にみそ汁をよそったとき、少し、うれしかったのよ。
あなたのけじめのなさが、うちにも、しみてたのね。
わたしは、笑った。
かず子も、笑った。
のれんが、夕方の風で、少しゆれていた。
店の明かりが、のれんの下から、居間のたたみまで、うすくのびていた。
エピローグ
夏休み、東京から、健太が孫の翔太を連れて帰ってきた。
翔太は、八つで、自転車に乗れなかった。
店は閉めたが、工具は、まだ奥に置いてあった。
わたしは、古い子ども用の自転車を出して、空気を入れた。
翔太は、店先で、何度も転んだ。
そのたびに、居間に駆けこんで、麦茶を飲んで、また出ていった。
店と居間を、何度も行ったり来たりした。
健太が、それを見て、ぽつりと言った。
ここ、やっぱり、どこまでが店か、わからないな。
でも、悪くないね。
翔太が、居間から顔を出して、健太に言った。
お父さん、ここ、いいね。どこからでもはいれる。
健太は、少し笑って、わたしのほうを見た。
夕方、翔太は、ふらふらしながら、商店街の端まで走っていった。
のれんの向こうで、かず子が、夕飯の支度をしていた。
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