無地の缶
ふたは、無地のままだった

朗読で聴く
第一章 パーキンの缶
七十四になった。
イングランドの北、ヨークシャーの小さな村に住んでいる。
石造りの家が、丘の斜面に二十軒ほど並ぶ村だ。
夫のトムは、二年前に死んだ。
子どもはいない。
台所の棚に、古いブリキの缶が、いくつも重ねてある。
丸くて、少しへこんでいて、ふたには何の模様も字もない。
わたしは、五十年、その缶で、パーキンを焼いて配ってきた。
パーキンは、オートミールと糖蜜と生姜で焼く、この地方の固い菓子だ。
母に教わった、ただ一つの菓子だった。
母も、村のだれかが困ると、これを焼いていた。
小さいころ、母と二人で、まだ暗い坂道を歩いたのを覚えている。
母は、戸口に缶を置くと、すぐに引き返した。
声をかけないの、と聞くと、母は首を振った。
朝になって、缶だけがあるほうが、いいのよ。
村でだれかが死ぬと、わたしはパーキンを焼いた。
だれかが病気になっても、赤ん坊が生まれても、焼いた。
焼きあがったら、無地の缶に入れて、ふたをした。
そして、夜明け前に、その家の戸口に置いてきた。
手紙は、つけなかった。
自分の名前も、書かなかった。
第二章 無口な女
なぜ名前を書かないのか、トムに聞かれたことがある。
わたしは、うまく答えられなかった。
名前を書けば、相手はお礼を言わなければならない。
お返しを考えなければならない。
悲しいときに、そんなことを考えさせたくなかった。
それに、わたしは、人と話すのが得意ではなかった。
村の婦人会にも、入らなかった。
教会のバザーでも、いつも隅で、黙ってお茶をいれていた。
あの人は、無口で、つきあいが悪い。
村の人がそう言っているのは、知っていた。
缶のことは、村の人たちも知っていた。
だれかが困ると、どこからか、パーキンの缶が届く。
村では、それを、ただ、缶、と呼んでいた。
缶が来たよ。
あの家にも、缶が届いたって。
だれが置いているのか、だれも知らなかった。
トムは、わたしとの約束を守って、だれにも言わなかった。
わたしは、自分のしていることに、何の意味もないと思っていた。
パーキンで、死んだ人が帰ってくるわけではない。
病気が治るわけでもない。
ただの、固い菓子だ。
わたしは、あの無地の缶のような人間なのだと思っていた。
何も言わず、名前もなく、戸口に置かれて、すぐに忘れられるもの。
第三章 トムの死んだ朝
二年前の冬、トムが死んだ。
心臓だった。
七十六だった。
お葬式の次の朝、わたしは、いつものように、夜明け前に目がさめた。
台所に下りて、ふと、戸口を開けた。
石の段の上に、缶が一つ、置いてあった。
丸くて、少しへこんだ、無地のブリキの缶だった。
ふたを開けると、パーキンが入っていた。
生姜のにおいがした。
わたしの焼き方とは、少しちがっていた。
糖蜜が多くて、少しやわらかかった。
次の朝も、缶が置いてあった。
その次の朝も。
一週間で、十一個の缶が、戸口に届いた。
どの缶にも、手紙はなかった。
どの缶のふたにも、名前はなかった。
わたしは、台所のテーブルに、十一個の缶を並べた。
そして、トムが死んでから、はじめて泣いた。
お葬式では、涙が出なかった。
村の人たちは、遠くから頭を下げるだけで、ほとんど話しかけてこなかった。
無口な女に、何と言えばいいのか、わからなかったのだろう。
わたしも、それでいいと思っていた。
でも、缶は、毎朝、黙って届いた。
だれも、何も言わなかった。
それが、何よりありがたかった。
第四章 サラの話
ひと月ほどして、となりの若い母親のサラが、訪ねてきた。
三十五で、七つになる娘のエミリーがいる。
サラは、台所に入ると、棚の缶を見て、少し笑った。
やっぱり、あなただったのね。
七年前、エミリーが生まれた朝、戸口に缶が届いたの。
夫は失業していて、わたしは一人で泣いてばかりいた。
あのパーキン、少しずつ、一週間かけて食べたわ。
だれかが、わたしたちのことを、気にかけてくれている。
そう思ったら、なんとか、やっていけた。
サラは、自分の手を見つめた。
何年かして、あなたの家の台所の窓から、同じ缶が見えたの。
でも、だれにも言わなかった。
あなたが名前を書かないのには、きっとわけがあると思ったから。
そのかわり、わたしも、焼くことにしたの。
村の古い本で、焼き方を覚えて。
だれかが困ったら、無地の缶に入れて、戸口に置いてきた。
名前は書かずに。
サラは、少し照れたように言った。
わたしだけじゃないのよ。
気がついたら、村の何人かが、同じことをしていた。
だれが始めたのか、だれも知らないまま。
去年の冬、丘の上の牧場のおじいさんが倒れたときも、そうだった。
一週間で、九つも缶が届いたって、おじいさんの娘さんが笑ってた。
だれからか、わからない。でも、村じゅうに見守られているみたいで、心強かったって。
あの十一個の缶は、みんなからよ。
ふたに、名前は、なかったでしょう。
わたしは、何も言えなかった。
第五章 ふたは、無地のままだった
サラが帰ったあと、わたしは、台所に一人で座った。
棚には、わたしの缶と、返しそびれた十一個の缶が並んでいた。
五十年、わたしは、自分を無口で、つきあいの悪い女だと思ってきた。
名前もなく、すぐに忘れられる、無地の缶のような人間だと。
でも、そうではなかったのかもしれない。
ふたに、名前を書かなかった。
だから、受け取った人は、お礼を言わなくてよかった。
お返しを考えなくてよかった。
ただ、パーキンを食べればよかった。
そして、名前がなかったから、だれでも、同じことができた。
名前のある缶なら、それは、わたしの缶だっただろう。
名前のない缶は、だれの缶でもなかった。
だから、サラも、ほかの人たちも、同じ缶を置くことができたのだ。
村じゅうに、いつのまにか、パーキンが届くようになっていた。
トムは、それを知っていたのだろうか。
死ぬ前の年に、一度だけ、言ったことがある。
おまえの缶は、いつか、おまえのものじゃなくなるよ。
あのときは、何のことか、わからなかった。
母の言葉も、思い出した。
朝になって、缶だけがあるほうが、いいのよ。
トムの死んだ次の朝、戸口には、缶だけがあった。
母の言ったとおりだった。何の言葉も、要らなかった。
エピローグ
春、サラの娘のエミリーが、パーキンの焼き方を習いに来た。
わたしは、エミリーに、オートミールをはからせた。
糖蜜を、ゆっくり、なべに流し入れさせた。
台所じゅうに、生姜のにおいが広がった。
焼きあがったパーキンを、エミリーは、無地の缶に入れた。
それから、色鉛筆を取り出した。
ふたに、わたしの名前、書いてもいい。
わたしは、少し考えてから、首を振った。
ふたは、無地のままにしておくのよ。
エミリーは、ふしぎそうに、わたしを見上げた。
どうして。
そのほうが、だれでも、次に焼けるから。
エミリーは、しばらく考えて、うなずいた。
それから、無地のふたを、両手で、ぎゅっと閉めた。
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