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弁当のふた

ふたは、無地のままだった

弁当のふた

朗読で聴く

第一章 アルミの弁当箱

六十二になった。

関東の、古い団地に住んでいる。

夫の誠と二人で、四十年近く、同じ三階の部屋で暮らしてきた。

息子の亮は、三十八になった。

台所の引き出しに、古いアルミの弁当箱がしまってある。

四角くて、銀色で、ふたには何の絵も字もない。

亮が中学に上がった春、駅前の金物屋で買ったものだ。

中学と高校の六年間、わたしは毎朝、この弁当箱に弁当をつめた。

ごはんに、卵焼き、焼いた魚か、少しの肉。

それに、ゆでた青菜と、梅干しを一つ。

中身は、六年間、ほとんど変わらなかった。

ふたも、六年間、ずっと無地のままだった。

わたしは、料理が得意ではなかった。

ほかのお母さんのように、かわいい弁当を作ることもできなかった。

第二章 はずかしい弁当

亮が中学二年の夏、クラスで、弁当が話題になったらしい。

友だちの弁当は、どれもにぎやかだった。

キャラクターの顔のおにぎり。

星の形のにんじん。

ふたに、好きなアニメの絵がついた弁当箱。

ふたの裏に、お母さんの手紙がはさんである子もいた。

亮は、家に帰ってきて、言った。

母さんの弁当、地味すぎる。

弁当箱も、みんなに笑われた。

工事のおじさんの弁当みたいだって。

わたしは、ごめんね、とだけ言った。

次の日も、同じ弁当箱に、同じような弁当をつめた。

手紙も、はさまなかった。

何を書けばいいのか、わからなかったのだ。

夫の弁当も、結婚した年から、同じようにつめてきた。

夫の弁当箱も、無地のアルミだった。

夫は、文句も言わないかわりに、おいしいとも言わなかった。

空になった弁当箱を、黙って流しに置くだけだった。

わたしは、地味な母親なのだと思っていた。

気のきいたことも、かわいいことも、何一つできない。

あの無地のふたのように、何も言えない人間だと。

第三章 苦しかった三年

その年の秋、夫の勤めていた会社が、つぶれた。

夫は、なかなか次の仕事が見つからなかった。

わたしは、昼はスーパーで、夜は工場で働いた。

家賃を払うのが、精いっぱいの月もあった。

夜中に、夫と二人で、何度も通帳を見つめた。

それから三年、苦しい暮らしが続いた。

それでも、弁当だけは、毎朝、同じようにつめた。

夜勤から帰って、そのまま台所に立った日もある。

卵が高い月は、卵焼きを小さくした。

魚が買えない月は、ちくわを焼いた。

でも、ごはんの量と、並べ方だけは、変えなかった。

ふたを閉めれば、いつもと同じ弁当に見えるように。

仕事を探していた夫にも、毎朝、同じ弁当を持たせた。

夫は、職業安定所の前のベンチで、それを食べていたらしい。

ある冬の朝、わたしは、卵焼きを切りながら、泣いてしまった。

お金のことも、夫のことも、もう、どうしていいかわからなかった。

涙をふいて、ふたを閉めた。

かちり、と小さな音がした。

ふり返ると、制服の亮が、台所の入り口に立っていた。

亮は、何も言わずに、弁当箱を受け取って、出ていった。

亮には、家のことを、ほとんど話さなかった。

話せば、学校でも、それを背負ってしまう気がした。

亮も、何も聞かなかった。

ただ、地味すぎる、とは、もう言わなくなった。

三年目の春、夫は、小さな運送会社に勤め先が決まった。

亮は、その春、高校二年になった。

第四章 亮の話

この秋、亮が、一人で団地に来た。

来年の春、娘の陽菜が、小学校に上がるのだという。

学童で、お弁当の日があるらしい。

亮は、台所の引き出しを開けて、古い弁当箱を取り出した。

まだ、あったんだ。

しばらく、無地のふたを、指でなでていた。

母さん、おれ、ずっと言ってなかったことがある。

中学のとき、うちが大変だったの、知ってたよ。

夜中に、二人で通帳を見てたのも。

でも、学校では、だれも知らなかった。

弁当のふたを開けると、いつもと同じだったから。

亮は、少し笑った。

クラスに、親が離婚した子がいたんだ。

その子の弁当、急に、コンビニのパンになった。

みんな、すぐに気づいて、いろいろ言った。

おれのは、ずっと同じだった。

だから、だれも、何も言わなかった。

おれは、ふつうの子でいられたんだ。

それでね、その子に、一か月くらい、卵焼きを半分あげてた。

母さん、あのころ、卵焼きが小さくなったって思ってなかった。

半分、あいつの分だったんだよ。

わたしは、思わず笑ってしまった。

小さくしていたのは、わたしのほうだったのに。

その子、いまは、うちの近くで、パン屋をやってる。

この前、陽菜を連れていったら、おまけしてくれた。

おまえの母さんの卵焼き、まだ覚えてるって。

あの地味なふたが、全部、隠してくれてた。

ふたを開けるまで、何が入ってるのか、だれにもわからない。

開けても、いつもと同じ。

母さんの弁当は、それが、すごかったんだよ。

わたしは、何も言えなかった。

ただ、無地のふたを見ていた。

第五章 ふたは、無地のままだった

亮が帰ったあと、わたしは、一人で台所に座った。

アルミの弁当箱は、テーブルの上に置いたままだった。

六年間、わたしは、自分を地味な母親だと思ってきた。

気のきいたことも、かわいいことも、何一つできない母親だと。

でも、そうではなかったのかもしれない。

ふたに、絵も字もなかった。

だから、中に何が入っているのか、外からは、わからなかった。

家が苦しかった三年も、外から見たふたは、同じ銀色だった。

ふたを開けても、いつもと同じ並べ方だった。

かわいいふたなら、きっと、変わったことが目立っただろう。

手紙をはさんでいたら、書けない朝に、気づかれただろう。

わたしは、何も書けなかった。

でも、書かなかったから、亮は、ふつうの子でいられた。

泣いた朝のことも、ふたは、何も言わなかった。

かちりと閉まれば、外からは、いつもと同じ弁当箱だった。

夫の弁当も、同じだったのだろう。

職業安定所の前のベンチで、夫は、いつもと同じふたを開けていたのだ。

ふたは、無地のままでよかったのだ。

わたしは、弁当箱を洗って、きれいにふいた。

ふたは、少しへこんでいたが、まだ、ぴたりと閉まった。

エピローグ

春、亮から、写真が送られてきた。

小学校の入り口で、陽菜が、ランドセルを背負って笑っている。

次の写真は、お弁当の日の朝だった。

台所で、亮が、アルミの弁当箱に、卵焼きをつめている。

新しい、四角い、銀色の弁当箱だった。

ふたには、何の絵も、字もない。

写真の下に、亮の文字があった。

卵焼き、母さんのみたいに、うまく巻けない。

わたしは、電話をかけた。

弱い火で、ゆっくり巻くのよ。

焦がしても、ふたを閉めれば、だれにもわからないから。

亮が、電話の向こうで、小さく笑った。

それ、母さんの口ぐせだったね。

そうだったろうか。自分では、覚えていなかった。

夕方、もう一枚、写真が届いた。

空になった弁当箱が、流しに置いてあった。

無地のふたに、陽菜の字で書いた小さな紙がのっていた。

おいしかった。

わたしは、その写真を、しばらく見ていた。

電話の向こうで、陽菜が、笑っている声がした。

ソウルミッション358

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