← あなたの魂のテーマを探す に戻る

井戸のふた

ふたは、無地のままだった

井戸のふた

朗読で聴く

第一章 裏庭の井戸

七十二になった。

四国の、川ぞいの小さな町に住んでいる。

二十四で嫁いで、四十八年、同じ古い家で暮らしてきた。

夫の健一は、六年前に死んだ。

息子の康介は、大阪で働いている。

家の裏庭に、古い井戸がある。

石を丸く積んだ井戸で、上に、木のふたがのせてある。

ふたは、ただの厚い板を三枚、打ちつけただけのものだ。

字も、模様も、何もない。

嫁いだ年に、お姑さんが、この井戸のことを教えてくれた。

毎朝、ふたを開けて、水をくんで、においをかぎなさい。

月に一度は、つるべで底をさらいなさい。

そして、必ずふたをしておくのよ。

ごみも、虫も、入らないように。

わたしは、言われたとおりにした。

四十八年、ほとんど毎朝、ふたを開けて、水をくんだ。

水は、いつも冷たくて、少し石のにおいがした。

くんだ水は、庭の花と、裏の畑にまいた。

第二章 埋めてしまえ

町に水道が来たのは、わたしが嫁ぐより前のことだ。

だから、井戸の水を飲む人は、もうだれもいなかった。

夫は、何度も言った。

あんな井戸、埋めてしまえ。

そこを平らにすれば、車が二台とめられる。

わたしは、首を振った。

なぜ残すのかと聞かれても、うまく言えなかった。

お姑さんに、そう言われたから。

それしか、言うことがなかった。

近所の人も、ふしぎそうに見ていた。

いまどき井戸なんて、手間なだけでしょう。

毎朝、ふたを開けて何をしているの。

わたしは、笑って、ごまかした。

息子の康介も、子どものころ、友だちに笑われたらしい。

おまえの家、まだ井戸なんか使ってるのか。

康介は、家に帰って、わたしに怒った。

母さんは、なんでもかんでも、古いままにしておく。

わたしは、言い返さなかった。

自分でも、意味のないことをしている気がしていた。

だれも飲まない水を、毎朝、くんでいる。

だれも見ない底を、毎月、さらっている。

わたしは、あの無地のふたのような人間だと思っていた。

何の役にも立たず、何も語らず、ただ、そこにのっているだけの板。

お姑さんが亡くなるとき、もう一度だけ、言われた。

井戸は、きれいにしておきなさい。

いつか、町じゅうが、要る日が来るから。

わたしは、うなずいた。

でも、そんな日が来るとは、思っていなかった。

夫は、死ぬ前の年の冬、縁側から井戸を見て、ぽつりと言った。

あれだけは、とうとう埋めさせてもらえなかったな。

怒っているのかと思ったら、少し笑っていた。

まあ、いい。おまえが毎朝あれを開けるのを見ていると、なんだか安心する。

あのときも、わたしは、何も言わなかった。

第三章 水が止まった春

去年の春、大きな地震があった。

夜中だった。

家は、壁にひびが入ったが、倒れなかった。

朝になって、水道が止まっていることがわかった。

町じゅうの水道管が、あちこちで割れていた。

直るまでに、三週間かかると言われた。

給水車は、一日に一度、学校の前に来るだけだった。

長い列に並んで、一家族、バケツ二つ分。

年寄りは、重いバケツを家まで運べなかった。

三日目の朝、わたしは、井戸のふたを開けた。

水は、いつもと同じように、冷たかった。

においをかいだ。

石のにおいだけで、ほかには何もなかった。

わたしは、門の前に、紙を一枚はった。

井戸の水、使ってください。

はじめに来たのは、となりの奥さんだった。

それから、向かいのおじいさん。

昼すぎには、知らない人まで、バケツを持って並んでいた。

わたしは、朝から晩まで、つるべを引いた。

手のひらが、すぐに赤くなった。

足の悪いおばあさんの家には、近所の高校生が、バケツを運んでくれた。

わたしが頼んだのではない。

だれかが、そうしようと言い出したらしい。

夕方になると、並ぶ人たちの中で、だれかが、つるべを代わってくれた。

知らない人どうしが、順番をゆずりあっていた。

それでも、水は、いくらくんでも、なくならなかった。

第四章 赤ちゃんの母親

一週間たったころ、若い母親が、赤ちゃんを抱いて来た。

町の向こうの、新しい団地に住んでいる人だった。

ミルクをとかす水が、もう、なくて。

わたしは、いちばん先に、その人のやかんに水を入れた。

それから三週間、その人は、毎日来た。

水道が直った日、その人は、菓子折りを持って来た。

縁側に座って、赤ちゃんを見ながら、言った。

ここに井戸があるなんて、だれも知らなかったんです。

でも、町の古い人たちは、知っていたみたいです。

あそこの奥さんは、毎朝、井戸をきれいにしているから、あの水は大丈夫だって。

みんな、そう言って、わたしをここに連れてきてくれたんです。

わたしは、びっくりした。

毎朝ふたを開けているのを、だれかが見ていたのだ。

笑っていた近所の人たちが、ずっと、見ていたのだ。

夕方、康介から電話があった。

地震のあと、何度も電話をくれていた。

母さん、町の人から聞いたよ。

井戸の水で、四十軒くらい、しのいだって。

康介は、少し黙ってから、言った。

子どものころ、おれ、母さんに怒ったよな。

なんでも古いままにしておくって。

ごめん。

母さんは、何も言わずに、ずっと、あの井戸の中を、きれいにしていたんだな。

第五章 ふたは、無地のままだった

電話を切ってから、わたしは、裏庭に出た。

井戸のふたは、いつもと同じように、そこにあった。

ただの厚い板で、字も、模様も、何もない。

四十八年、わたしは、自分をこのふたのような人間だと思ってきた。

何も語らず、何の役にも立たず、ただそこにのっているだけの人間だと。

でも、そうではなかったのかもしれない。

ふたには、何も書いていない。

下に何があるのか、ふたは言わない。

でも、ふたがあったから、四十八年、水はきれいなままだった。

ごみも、虫も、入らなかった。

わたしは、何も言わなかった。

なぜ残すのか、説明もできなかった。

でも、言わなくても、毎朝、ふたを開けて、閉めていた。

その下に、町じゅうの人が飲める水が、ずっとあった。

わたしは、ふたに手を置いた。

板は、朝の日を受けて、少しあたたかかった。

夫が、安心する、と言っていたのを、思い出した。

あの人も、井戸の中に何があるのか、わかっていたのかもしれない。

お姑さんの言ったとおりだった。

いつか、町じゅうが、要る日が来る。

来るまで、ふたは、無地のまま、そこにのっていればよかったのだ。

エピローグ

夏、康介が、小学二年の孫の悠を連れて帰ってきた。

悠は、井戸を見るなり、目をまるくした。

おばあちゃん、これ、何。

わたしは、悠の手を取って、いっしょにふたを持ち上げた。

暗い穴の底で、水が、小さく光っていた。

つるべを下ろして、水をくんで、悠の手のひらにかけた。

つめたい。

悠が、声を上げて笑った。

においをかいでごらん。

悠は、鼻を近づけて、首をかしげた。

石の、においがする。

そう。それなら、大丈夫。

くみ終わると、わたしは言った。

さあ、ふたをしておこうね。

悠は、両手で、無地のふたを、そっと井戸にのせた。

縁側で、康介が、それを黙って見ていた。

ソウルミッション358

あなたの魂のテーマに気づく場所