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平らなお盆

傾けずに、水平に持っていた

平らなお盆

朗読で聴く

第一章 五十年のお盆

七十二になった。

山陰の、小さな温泉町に住んでいる。

川ぞいに、古い旅館が十軒ほど並ぶ町だ。

わたしは、二十二の年から、その一軒で仲居をしてきた。

この春で、ちょうど五十年になる。

仲居の仕事は、お盆を運ぶことから始まる。

はじめの日、先代の女将さんに、こう教わった。

お盆は、水平に持ちなさい。

どちらにも、傾けてはいけない。

傾けたら、お吸い物は、傾けたほうへこぼれる。

だから、真ん中を、まっすぐに持つの。

はじめのころは、よくこぼした。

階段で、廊下の角で、ふすまを開けるときに。

そのたびに、女将さんは、黙って布巾を渡した。

一年たつと、こぼさなくなった。

十年たつと、お盆の重さを忘れた。

お吸い物を六つのせて、長い廊下を歩いても、一滴もこぼれない。

それが、わたしのできる、ただ一つのことだった。

第二章 どっちつかず

夫の正男は、町の小さな酒屋だった。

口が悪く、気が短く、でも、根はやさしい人だった。

息子の和也と、娘の由紀がいる。

和也は、二十五のとき、店を継がないと言った。

大阪で、料理の仕事をしたいと言った。

夫は、どなった。

そんなやつは、もう息子じゃない。

和也は、その夜のうちに、家を出ていった。

それから十八年、二人は、一度も口をきかなかった。

夫は、晩酌のたびに、和也の悪口を言った。

わたしは、黙って聞いた。

そうね、とも、ちがう、とも言わなかった。

和也は、ときどき、わたしにだけ電話をくれた。

電話でも、父親のことを悪く言った。

わたしは、黙って聞いた。

お父さんの悪口は、一度も言わなかった。

お父さんの肩を持つことも、しなかった。

娘の由紀は、それが、いやだったらしい。

お母さんは、いつも、どっちつかずね。

お母さんには、意見というものがないの。

由紀は、高校生のころ、そう言って、泣いた。

わたしは、言い返さなかった。

そのとおりだと思った。

旅館でも、同じだった。

仲居どうしで、もめごとがあると、みんな、どちらかの味方についた。

わたしは、どちらにもつかなかった。

あの人は、何を考えているか、わからない。

休憩室で、そう言われているのを聞いた。

ある年、仲居の二人が、ひどくけんかをした。

一人は、わたしより五つ年上の、きびしい人だった。

一人は、わたしより三つ年下の、気の強い人だった。

二人とも、夜になると、別々に、わたしの部屋に来た。

あの人、ひどいと思わない、と言った。

わたしは、お茶をいれて、黙って聞いた。

どちらにも、そうね、とは言わなかった。

どちらの話も、もう片方には、伝えなかった。

ひと月して、二人は、また並んで、配膳をしていた。

だれも、わたしのことは、何も言わなかった。

わたしも、何かをしたとは、思わなかった。

わたしは、お盆みたいな人間なのだと思っていた。

上に何がのっても、何も言わない、ただの平らな板だ。

第三章 病院の夜

五年前の冬、夫が倒れた。

七十四だった。

医者に、長くはないと言われた。

わたしは、大阪の和也に電話をした。

お父さんが、倒れたの。

それだけ言って、あとは何も言わなかった。

来なさい、とは、言わなかった。

和也は、次の日の夜、病院に来た。

十八年ぶりだった。

夫は、和也の顔を見て、しばらく黙っていた。

それから、天井を見たまま、言った。

料理は、うまくなったか。

和也は、うん、とだけ答えた。

わたしは、二人のあいだに、お茶を置いた。

お盆を、水平に持って、湯のみを二つ。

その夜、二人は、遅くまで話していた。

わたしは、廊下の長いすで、それを聞いていた。

夫は、ひと月後に死んだ。

お葬式で、和也は、父親の好きだった酒を、棺に入れた。

わたしは、あいかわらず、何もしなかったと思っていた。

電話をしただけ。

お茶を置いただけ。

第四章 由紀の話

この春、わたしは、旅館をやめた。

最後の日、女将さんが、花をくれた。

三代目の、若い女将さんだ。

家に帰ると、由紀と和也が、来ていた。

由紀は四十五、和也は四十八になった。

二人で、わたしの好きな、おはぎを買ってきてくれた。

お茶をいれようとすると、由紀が、わたしがやる、と言った。

由紀は、お盆にお茶をのせて、少し傾けて、こぼした。

三人で、笑った。

布巾でふきながら、由紀が、言った。

お母さん、お父さんが入院していたとき、わたし、聞いたの。

お父さんが、こう言ったの。

お母さんは、おれのことも、和也のことも、一度も悪く言わなかった。

四十年あまりいっしょにいて、一度もだ。

だから、和也は、帰ってこられたんだ。

由紀は、おはぎを見つめたまま、続けた。

わたし、ずっと、お母さんは、どっちつかずだと思ってた。

意見のない人だと思ってた。

でも、ちがったんだね。

お母さんが、どっちかに傾いていたら、うちは、こぼれてた。

和也が、黙って、うなずいた。

母さんが、父さんの悪口を一度でも言ってたら、おれは、二度と帰らなかった。

父さんの味方をしてたら、なおのことだ。

母さんは、どっちにも、かたむかなかった。

だから、おれは、帰る場所を、なくさなかった。

由紀が、小さく笑った。

お母さんが、平らだったから。

第五章 傾けずに、水平に持っていた

二人が帰ったあと、わたしは、台所に一人で座った。

古いお盆が、壁に立てかけてあった。

五十年、わたしは、自分を、意見のない人間だと思ってきた。

どちらの味方もできない、どっちつかずの人間だと。

でも、そうではなかったのかもしれない。

わたしは、水平に持つと、決めていたのだ。

夫も、和也も、わたしのお盆の上にのっていた。

どちらかにかたむければ、もう片方は、こぼれ落ちる。

だから、真ん中を、まっすぐに持っていた。

重かった。

黙っているのは、何か言うより、ずっと重かった。

それでも、一滴も、こぼさなかった。

旅館の廊下で、五十年、毎日していたことだった。

家でも、わたしは、同じことをしていたのだ。

平らな板は、何も言わない。

でも、平らだから、上に、物が立っていられる。

夫は、わたしの上で、どなっていられた。

和也は、わたしの上で、出ていって、帰ってこられた。

仲居の二人も、わたしの部屋で、言いたいだけ言って、また並んだ。

由紀が、意見がない、と泣いた夜のことを思い出した。

あのとき、わたしは、言い返さなかった。

言い返せば、由紀の言葉が、こぼれてしまう気がした。

わたしは、古いお盆を手に取って、両手で、まっすぐに持ってみた。

手は、まだ、覚えていた。

エピローグ

夏、和也が、娘の美月を連れてきた。

美月は八つで、旅館ごっこが好きだ。

おばあちゃん、仲居さんのやり方、教えて。

わたしは、小さなお盆に、麦茶のコップを三つのせた。

はい、持ってごらん。

美月は、お盆を受け取ると、すぐに傾けた。

麦茶が、ゆれた。

傾けないの。

真ん中を、まっすぐに持つのよ。

美月は、息を止めて、そろそろと、廊下を歩いた。

一滴も、こぼれなかった。

美月は、振り返って、得意そうに笑った。

縁側で、和也と由紀が、それを見ていた。

二人とも、同じ顔で、笑っていた。

ソウルミッション358

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