兄の線
冷たい灰と、あたたかい灰だった

朗読で聴く
第一章 二人の大工
七十四になった。
中部地方の、山あいの小さな町に住んでいる。
弟と二人で、小さな工務店を、五十年あまりやってきた。
わたしが二十で、弟が十八のときに、父の跡を継いだ。
父も大工で、町の家を、何十軒も建てた人だった。
父は、口ぐせのように言っていた。
大工の仕事は、見えないところで決まる。
柱の線が一本ずれたら、家は、何十年もかけて、ゆがんでいく。
わたしたちは、父のやり方を、そのまま続けた。
弟の健二は、去年の秋、七十一で死んだ。
心臓だった。
前の晩も、いつもと同じように、明日の段取りを話していた。
明日は、裏の家のといを直すから、はしごを積んでおく、と言った。
朝、現場に出る前に、作業場で倒れて、そのままだった。
今は、わたしが一人で、作業場を片づけている。
もう、新しい家を建てることは無い。
頼まれた修理を、一つずつ、終わらせているだけだ。
作業場には、弟の声が、まだ残っている気がする。
朝、戸を開けると、おはよう兄貴、と言われそうな気がする。
第二章 あたたかい弟
弟は、よくしゃべる男だった。
お施主さんの家に行くと、まず、お茶を飲みながら、話を聞いた。
どんな家に住みたいのか。子どもは何人か。年寄りはいるか。
冗談を言って、奥さんを笑わせ、子どもを肩車した。
棟上げの日には、もちをまく前に、集まった人たちに、大きな声であいさつをした。
近所の子どもたちは、健ちゃん、健ちゃん、と弟にまとわりついた。
町の人は、みんな、弟のことが好きだった。
健ちゃんに頼めば、安心だ。
そう言われて、仕事は、いつも弟のところに来た。
わたしは、しゃべらない。
お施主さんの家に行っても、黙って、柱の寸法を測るだけだった。
図面を引き、材木に線を引き、のこぎりを入れる。
線は、一本も、ずらさなかった。
朝は、だれよりも早く作業場に来て、材木の反りを見た。
雨の日は、材木が水を吸うので、線を引かなかった。
一日、何もせずに、材木を見ているだけの日もあった。
弟が、ここはだいたいでいいよ、と言っても、わたしは聞かなかった。
だいたいで引いた線は、十年たって、必ず、どこかに出る。
若い大工が来ても、わたしの下には、長く続かなかった。
線がずれていると、黙って、材木を作業台に戻した。
何も言わずに、もう一度、引かせた。
あの人は、冷たい。
何を考えているのか、わからない。
町の人は、わたしのことを、そう言った。
そのとおりだと、わたしも思っていた。
結婚もしなかった。
しゃべらない男のところに、来てくれる人はいないと思った。
弟の家族の、となりの家で、一人で暮らしてきた。
弟は、あたたかい人間で、わたしは、冷たい人間だった。
うちの店は、弟でもっている。
五十年、ずっと、そう思ってきた。
第三章 弟の葬式
弟の葬式には、町じゅうの人が来た。
寺の外まで、人が並んだ。
みんな、泣いていた。
健ちゃんが、うちの家を建ててくれた。
健ちゃんが、うちの娘の結婚式で、歌ってくれた。
わたしは、一番前に座って、黙って、頭を下げていた。
涙は、出なかった。
泣き方を、忘れてしまったような気がした。
弟の奥さんが、わたしの横で、ずっと泣いていた。
だれかが、小さい声で言うのが聞こえた。
お兄さんは、泣かないんだね。
わたしは、聞こえないふりをした。
葬式が終わって、作業場に帰った。
弟の道具箱が、作業台の上に、置いたままになっていた。
わたしは、それを、開けられなかった。
ひと月のあいだ、作業場には、ほとんど行かなかった。
行っても、弟の道具箱を見ないように、背を向けて座った。
弟がいなくなったら、うちの店には、何も残らない。
冷たい兄が一人、残っただけだと思った。
第四章 弟の手帳
弟の法事が終わって、奥さんが、作業場に来た。
小さな手帳を、一冊、持っていた。
健二が書いた、仕事の手帳です。
お兄さんに、読んでほしいところがあるんです。
手帳は、五十年ぶんの、お施主さんの話でいっぱいだった。
子どもの名前、好きな色、ひざの悪いおばあさんのこと。
台所の窓は、朝日が入る向きにしてほしい。
子どもが大きくなったら、部屋を二つに分けられるように。
弟は、聞いたことを、全部、小さな字で書きとめていた。
その一番最後のページに、弟の字で、こう書いてあった。
おれが笑っていられるのは、兄貴が線を引くからだ。
兄貴の線は、一本もずれない。
だから、おれは、お施主さんに、大丈夫ですと言える。
うそをつかずに、笑っていられる。
兄貴は、冷たいんじゃない。
兄貴が冷たくしてくれるから、おれは、あたたかくしていられる。
わたしは、手帳を持ったまま、しばらく、動けなかった。
作業場の窓から、夕方の光が、弟の作業台に当たっていた。
それから、何日かして、古いお施主さんが、作業場をたずねてきた。
四十年前に、わたしたちが建てた家の、おばあさんだった。
あの家、冬でも、すきま風が一つも入らないのよ。
健ちゃんが言ってた。
兄貴が、一ミリもずらさないで建てたからだって。
四十年、あの家は、ずっとあたたかかった。
おばあさんは、わたしの手を取った。
健ちゃんも、あなたも、ありがとうね。
わたしは、うなずくことしかできなかった。
第五章 冷たい灰と、あたたかい灰だった
その夜、わたしは、弟の道具箱を、初めて開けた。
中には、弟ののみと、かなづちと、わたしが昔あげた、さしがねが入っていた。
五十年、わたしは、自分を冷たい人間だと思ってきた。
しゃべらず、笑わず、線をずらさない。
あたたかいのは弟で、わたしは、ただ、そのとなりにいただけだと。
でも、弟は、わたしの線があったから、笑っていられた。
わたしの冷たさが、弟のあたたかさを、うそにしなかった。
二人とも、地味な大工だった。
一人は冷たく、一人はあたたかかった。
でも、どちらか一人だけでは、家は、あたたかくならなかった。
町の家の、すきま風が入らない壁。
その中には、わたしの線と、弟の笑い声が、両方、入っていた。
弟が笑ってお施主さんを安心させ、わたしが黙って線を引いた。
どちらが欠けても、あの家は、建たなかった。
わたしは、弟のさしがねを、手に取った。
弟が五十年、ずっと使っていた、古いさしがね。
目盛りは、すり減って、ほとんど読めなかった。
弟は、目盛りを読まずに、わたしの引いた線に合わせて、切っていたのだと思った。
エピローグ
春になって、弟の孫の、大輔が、作業場に来た。
二十三で、町の工務店で、見習いをしているという。
弟の葬式で、一番、泣いていた子だった。
大輔は、おじいちゃんみたいな大工になりたいんです、と言った。
それから、少し考えて、言いなおした。
おじいちゃんと、大おじさんの、二人みたいな大工に。
わたしは、黙って、材木を一本、作業台に置いた。
大輔に、弟のさしがねを渡した。
線を引いてみろ。
大輔は、真剣な顔で、線を引いた。
少し、曲がっていた。
わたしは、何も言わずに、もう一度、材木を置いた。
大輔は、笑って、もう一度、線を引いた。
その笑い方が、弟に、よく似ていた。
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