おうどいろの一滴
真っ白では、なかった

朗読で聴く
第一章 ペンキ屋
七十一になった。
ニュージーランドの南の島の、山のふもとの小さな町に住んでいる。
羊の牧場にかこまれた、人の少ない町だ。
夏は日差しが強く、冬は、山から冷たい風が下りてくる。
空気が澄んでいて、晴れた日は、遠くの山の雪まで、はっきり見える。
わたしは、この町で、四十五年、家のペンキ塗りをしてきた。
家の壁、教会の板壁、学校の窓わく、郵便局の柱。
町の建物で、わたしが塗ったことのないものは、ほとんど無い。
この町の家は、白い壁が多い。
でも、わたしの白は、真っ白ではない。
白いペンキの缶を開けると、わたしは、いつも、おうどいろを一滴だけ、落とす。
それから、棒で、ゆっくりとかき混ぜる。
すると、白が、ほんの少しだけ、あたたかい色になる。
見ただけでは、ほとんどわからないくらいだ。
四十五年、わたしは、どの缶にも、そうしてきた。
家の壁を塗るときは、まず、古いペンキを、へらでこそげ落とす。
割れた板を替え、すきまをうめ、下地を塗る。
それから、白を、二度、塗り重ねる。
一軒の家に、十日かかることもある。
急いで塗った壁は、三年ではがれる。
ていねいに塗った壁は、十年もつ。
妻のアンは、六年前に死んだ。
娘が一人いて、孫娘は、北の島の大きな町で、建物の設計をしている。
孫娘は、二十九になる。
子どものころ、夏休みのたびに、わたしの仕事についてきた。
はしごの下で、ペンキの缶を、両手で持っていてくれた。
第二章 最初の一滴
あの一滴は、失敗から始まった。
二十六のとき、わたしは、酒におぼれていた。
仕事をすっぽかし、借金をつくり、アンを何度も泣かせた。
ある朝、二日酔いのまま、ある家の壁を塗りに行った。
手がふるえて、おうどいろの缶を、白い缶の中に、少しこぼした。
新しい白を買うお金は、無かった。
わたしは、そのまま、壁を塗った。
だれにも、言わなかった。
その家の人は、何も気づかなかった。
次の日から、わたしは、酒をやめた。
夜になると、手がふるえて、眠れなかった。
それでも、一滴も飲まなかった。
アンが、もう出ていく、と言った晩だった。
でも、おうどいろの一滴は、やめなかった。
あの日のことを、忘れないために。
自分が、真っ白な人間ではないことを、忘れないために。
町の若いペンキ屋たちは、わたしの白を、少し笑った。
テッドさんの白は、くすんでいるね。
教会の人にも、一度、もう少し白くならないか、と言われた。
新しいペンキは、もっと真っ白に塗れるのに。
わたしは、言い返さなかった。
新しい家を建てた人たちは、都会のペンキ屋に頼むようになった。
わたしの仕事は、古い家の塗り直しばかりになった。
くすんでいるのは、ペンキではなく、わたしのほうだと思っていた。
第三章 まぶしい学校
去年の春、わたしは、仕事をやめた。
はしごに上るのが、こわくなった。
その夏、町の小学校が、塗り直されることになった。
前の塗り直しから、二十年がたっていた。
わたしにも、声がかかったが、断った。
もう、高いところの仕事は、できなかった。
都会から来た、若いペンキ屋たちが、塗った。
いちばん新しい、真っ白なペンキだった。
できあがった学校は、まるで、新品のように見えた。
ところが、秋になって、学校から、知らせが来た。
子どもたちが、目が痛いと言っている。
この町は、空気が澄んでいて、日差しがとても強い。
真っ白な壁が、その日差しを、まともに照り返していた。
校庭で遊ぶ子どもたちは、目を細めて、壁から顔をそむけた。
頭が痛くなって、保健室に行く子も出た。
先生たちは、窓にカーテンを引いたが、校庭では、どうにもならなかった。
前の壁のときは、そんなことは、一度も無かった。
前の壁も、わたしが塗ったものだった。
二十年前、わたしが、十日かけて塗った壁だった。
古いペンキは、少しはげていたが、だれも目が痛いとは言わなかった。
わたしは、新聞でその記事を読んで、首をかしげた。
ペンキのせいだとは、思わなかった。
第四章 テッドさんの白
十月のある日、校長先生が、わたしの家に来た。
テッドさん、お願いがあるんです。
学校を、もう一度、塗り直したい。
前と同じ、テッドさんの白で。
わたしは、驚いた。
あれは、くすんだ白ですよ、と言った。
校長先生は、首をふった。
くすんでいるんじゃないんです。
あたたかいんです。
町の古い写真を、調べたんです、と校長先生は言った。
ほかの町の白い家は、写真の中で、冷たく光っている。
でも、この町の家は、夕方になると、少し、あたたかい色になる。
この町に帰ってきた人は、みんな、それで、帰ってきたとわかるんです。
子どもたちも、前の壁のときは、壁によりかかって、本を読んでいたんです。
その晩、孫娘から、電話が来た。
校長先生から、話を聞いたという。
おじいちゃん、建物の勉強で、習ったよ。
真っ白な壁は、光をはね返す。
少し色の入った白は、光を受けとめるんだって。
この町が、どこよりもあたたかく見えたのは、おじいちゃんの一滴のせいだったんだよ。
わたしは、受話器を持ったまま、何も言えなかった。
孫娘は、続けた。
わたし、北の島で働いていても、写真で、この町の家を見ると、すぐわかるの。
あ、おじいちゃんの白だ、って。
第五章 真っ白では、なかった
電話を切ってから、わたしは、物置に行った。
古いおうどいろの缶が、棚の上にあった。
四十五年で、何十缶も、使い切った。
でも、一つの缶に落とすのは、いつも、たった一滴だった。
四十五年、わたしは、あの一滴を、恥じてきた。
酒におぼれた日の、失敗のしるしだった。
自分が真っ白でないことを、忘れないための、ばつだった。
でも、その一滴が、町の壁を、あたたかくしていた。
まぶしすぎない白が、子どもたちの目を、守っていた。
帰ってきた人に、ここが家だと、教えていた。
遠くにいる孫娘にも、教えていた。
真っ白でなかったから、光を受けとめることができた。
わたしは、アンのことを、思い出した。
あの晩、アンは、家を出ていかなかった。
朝まで、わたしの横に座っていてくれた。
真っ白ではない男のとなりに、四十年近く、いてくれた。
あの人も、わたしの一滴を、知っていたのかもしれない。
一度も、何も言わなかった。
でも、アンは、うちの台所の壁も、いつも、わたしの白で塗らせた。
エピローグ
次の年の夏休み、学校は、もう一度、塗られた。
わたしは、はしごには上らなかった。
孫娘が、休みを取って、北の島から帰ってきた。
いすを、校庭のまん中まで運んでくれた。
校庭に、いすを置いて、若いペンキ屋たちに、教えた。
缶を開けたら、まず、おうどいろを、一滴。
それから、ゆっくり、かき混ぜる。
若いペンキ屋たちは、ふしぎそうな顔をして、一滴を落とした。
孫娘も、一つの缶に、一滴、落とした。
手つきが、子どものころと同じだった。
夕方、塗り終わった学校の壁に、日が当たった。
壁は、少しも、まぶしくなかった。
ほんの少しだけ、あたたかい色をしていた。
わたしは、いすに座ったまま、しばらく、その壁を見ていた。
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