黄ばんだタイル
真っ白では、なかった

朗読で聴く
第一章 古い銭湯
六十四になった。
東海地方の、海に近い町で、銭湯をやっている。
祖父が始めた銭湯で、わたしは三代目になる。
二十八のとき、父から継いだ。
それから、三十六年になる。
建物は、祖父の代のままだ。
高い天井と、木の下駄箱と、古い番台。
男湯と女湯の境の壁には、昔の職人が描いた、山と海の絵がある。
その絵も、湯気で、少し色が落ちている。
風呂場の壁と床には、白いタイルが、びっしりと張ってある。
いや、白かったタイル、と言ったほうがいい。
七十年近く、湯気と湯あかを浴びて、タイルは、少し黄ばんでいる。
毎晩、店を閉めてから、わたしは、タイルをみがく。
ブラシで、一枚ずつ、こする。
でも、真っ白には、もどらない。
目地の線も、ところどころ、黒ずんでいる。
薬を使えば、もう少し白くなるのかもしれない。
でも、古いタイルは、強い薬で、ひびが入ることがある。
だから、わたしは、ブラシと石けんだけで、みがいてきた。
夜の十一時に店を閉めて、風呂場の湯を全部抜く。
床と壁と湯ぶねを、二時間かけて、こする。
終わるのは、いつも、夜中の一時を過ぎる。
腰が痛くなっても、一日も休まなかった。
第二章 人見知り
わたしは、人見知りだ。
子どものころから、人と話すのが、苦手だった。
番台に座っていても、お客さんと、うまく話せない。
いらっしゃい、と、ありがとう、くらいしか言えない。
父は、話のうまい人だった。
番台から、町じゅうの人と、冗談を言い合っていた。
わたしが継いでから、客は、少しずつ、減った。
十年前、となりの町に、大きなスーパー銭湯ができた。
広くて、新しくて、どこもかしこも、真っ白だった。
客は、またそっちへ、流れていった。
うちの銭湯は、古くて、暗くて、タイルも黄ばんでいる。
主人は、愛想が無い。
湯の温度だけは、祖父のころと同じ、四十二度に守ってきた。
でも、それを気にする客は、もう、ほとんどいなかった。
商工会の人に、言われたことがある。
壁を全部、新しい白いタイルに張り替えたらどうか。
明るくすれば、若い人も来るよ。
見積もりを取ったら、とても払えない金額だった。
わたしは、黄ばんだタイルを、みがき続けるしかなかった。
妻は、十二年前に、病気で死んだ。
子どもはいない。
番台に座るのも、風呂場をみがくのも、わたし一人になった。
常連さんは、年寄りばかりになっていった。
自分も、このタイルと同じだと思っていた。
くすんでいて、さえなくて、人を明るくする力が無い。
そういう人間が、そういう銭湯を、続けているだけだった。
第三章 閉める知らせ
今年の夏、ボイラーが、こわれた。
直すには、大きなお金がかかる。
わたしは、店を閉めることに決めた。
六十四で、新しい借金をする元気は、もう無かった。
番台の横に、小さな紙をはった。
九月の末で、閉めます。長いあいだ、ありがとうございました。
紙をはった次の日、番台に、手紙が一通、置いてあった。
だれが置いたのかは、わからなかった。
封筒には、ていねいな字で、ご主人さま、と書いてあった。
店を閉めてから、わたしは、その手紙を開いた。
第四章 手紙
手紙は、若い母親からだった。
うちの息子は、明るいところが、だめなんです。
まぶしい光と、大きな音で、気分が悪くなって、さわいでしまう。
となりの町の、新しいお風呂にも、行ってみました。
でも、真っ白な壁が光って、息子は、泣き出してしまいました。
どこのお風呂にも、入ることができませんでした。
三年前、こちらに、初めて来ました。
息子は、湯ぶねにつかって、黄色いタイルを、じっと見ていました。
それから、ここ、まぶしくないね、と言いました。
それから毎週、ここに来ています。
いつも、日曜の夕方の、いちばんすいている時間です。
ご主人は、いつも、番台で静かに本を読んでいました。
息子が、外でお風呂に入ることができるのは、ここだけです。
ご主人が、話しかけてこないのも、ありがたかったです。
何も聞かれないから、息子が、落ちついていられました。
どうか、閉めないでくださいとは、言えません。
でも、ありがとうございました、と言いたかったんです。
手紙の最後に、子どもの字で、一行、書いてあった。
きいろいおふろ、すき。
わたしは、番台に座ったまま、長いあいだ、その字を見ていた。
番台の上の、祖父の代からの古い時計が、静かに鳴っていた。
わたしは、あの男の子の顔を、思い出そうとした。
いつも、湯ぶねのすみで、壁のほうを向いていた子だった。
わたしは、声をかけたことが、一度も無かった。
次の日の夕方、何人かの常連さんが、番台の前に並んだ。
耳の遠い、九十のおばあさん。
夜勤明けの、看護師さん。
仕事を辞めて、家にこもっていた、若い男。
みんな、口々に言った。
ここは、落ちつくんだ。
まぶしくなくて、うるさくなくて、ちょうどいいんだ。
九十のおばあさんは、わたしの手を取った。
あんたのおじいさんの代から、ここに来ているんだよ。
このタイルを見ると、死んだ亭主と来たころを、思い出すんだ。
若い男は、下を向いたまま、言った。
ここに来ると、だれにも見られていない気がして、楽なんです。
第五章 真っ白では、なかった
その夜、わたしは、からっぽの風呂場に立った。
明かりの下で、黄ばんだタイルが、やわらかく光っていた。
三十六年、わたしは、このタイルを、恥じてきた。
真っ白にできないことを、自分の力が足りないせいだと思ってきた。
話のうまくない、自分のことも。
でも、真っ白だったら、あの子は、入ることができなかった。
くすんでいたから、目が休まった。
話しかけなかったから、落ちつけた。
わたしが足りないと思っていたところが、だれかの、ちょうどいいところだった。
毎晩、ブラシでみがいたのは、白くするためだと思っていた。
でも、本当は、強い薬を使わずに、タイルを守っていたのかもしれない。
わたしは、湯ぶねのふちに、腰をおろした。
タイルに手をあてると、まだ、少しあたたかかった。
祖父も、父も、この壁を、張り替えなかった。
お金が無かったのか、わざとだったのか、今となってはわからない。
でも、三代で、同じタイルを、みがいてきたのだと思った。
エピローグ
秋の終わり、商工会の人が、たずねてきた。
町の人たちが、お金を出し合って、ボイラーを直したいと言っている。
わたしは、何も言えずに、頭を下げた。
ボイラーの修理には、町の大工も、配管の職人も、手を貸してくれた。
あの若い男も、毎日、手伝いに来た。
冬のあいだ、わたしは、休まずに、タイルをみがいた。
年が明けて、銭湯は、また、のれんを出した。
タイルは、張り替えなかった。
最初の日の夕方、あの母親が、男の子を連れて来た。
男の子は、番台の前で、わたしを見上げた。
わたしは、いらっしゃい、と小さく言った。
それ以上は、何も言わなかった。
男の子は、うなずいて、風呂場に入っていった。
湯ぶねのすみで、男の子は、また、黄色い壁を見ていた。
その夜、店を閉めてから、わたしは、ブラシを持った。
黄ばんだタイルを、一枚ずつ、ていねいに、みがいた。
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