本当の話
金色には、しなかった

朗読で聴く
第一章 港の町
七十四になった。
アイルランドの西の、大西洋に面した、小さな港の町に住んでいる。
灰色の石の家が、港のまわりに並んでいる町だ。
風が強く、一年の半分は、雨が降っている。
わたしは、この港で、四十年、船の荷を積み下ろす仕事をした。
妻のノラは、四年前に死んだ。
ノラは、港の魚の工場で、三十年働いた人だった。
小柄で、声が小さくて、でも、一度決めたことは、決して曲げなかった。
ノラが死んでから、わたしは、毎朝、一人で港まで歩く。
堤防の先まで行って、海を見て、帰ってくる。
それが、一日でいちばん長い時間だ。
息子が一人いる。
ダブリンで、銀行に勤めている。
息子には、娘が一人いる。
孫のシボーンは、十六だ。
この夏、シボーンが、一人で、わたしの家に泊まりに来た。
学校の宿題で、家族の歴史を書くのだという。
おじいちゃんの話を、聞かせて、と言った。
シボーンは、小さなノートと、録音の機械を持ってきていた。
わたしは、少し、困った。
話せることと、話せないことが、あったからだ。
第二章 話せない十年
わたしは、三十から四十まで、酒を飲んでいた。
飲まない日は、無かった。
港の仕事が終わると、まっすぐ、パブに行った。
家に帰るのは、店が閉まってからだった。
給料の半分は、パブに消えた。
ノラは、何も言わずに、家のことをやった。
洗濯をして、内職をして、息子を育てた。
息子は、そのころ、小学生だった。
夜、わたしが帰ると、息子は、階段の上から、黙って、こちらを見ていた。
わたしは、それに、気づかないふりをした。
四十のとき、港で、事故を起こした。
酔ったまま、荷を吊る機械を動かして、若い仲間が、足の骨を折った。
その夜、ノラは、初めて、わたしに言った。
あなたが、やめないなら、わたしは、あの子を連れて、出ていく。
ノラの声は、いつもと同じに小さかった。
でも、わたしは、それが本気だとわかった。
ノラは、一度決めたことを、曲げない人だったからだ。
わたしは、その夜、台所のテーブルで、朝まで座っていた。
ノラも、向かいに座っていた。
二人とも、何も言わなかった。
次の日から、わたしは、一滴も飲んでいない。
最初の一年は、毎晩、パブの前を通るのが、つらかった。
窓の明かりと、笑い声が、外まで聞こえた。
わたしは、足を止めずに、まっすぐ家に帰った。
家に帰ると、ノラが、紅茶をいれてくれた。
それが、三十四年続いた。
三十四年になる。
でも、その十年のことを、わたしは、だれにも話したことがない。
息子とも、一度も、話したことがない。
息子は、大人になって、ダブリンへ行った。
年に二回、帰ってくるが、わたしたちは、天気の話しかしない。
第三章 金色の話
シボーンは、録音の機械のボタンを押した。
おじいちゃんの、若いころの話をして。
わたしは、港の話をした。
大きな船が入ってくる朝のこと。
仲間と、冬の嵐の中で、荷を守ったこと。
ノラと、町のダンスで出会ったこと。
息子が、初めて船の上に乗せてもらった日のこと。
ノラが、毎週日曜に焼いた、黒いパンのこと。
シボーンは、楽しそうに聞いていた。
ときどき、笑って、ノートに書いた。
どれも、本当の話だった。
でも、きれいなところだけを、選んでいた。
金色の、思い出話だった。
シボーンは、ノートに、何か書いていた。
それから、顔を上げて、言った。
おじいちゃん、三十から四十のころの話が、無いね。
わたしは、黙った。
パパに聞いたら、その十年のことは、おじいちゃんに聞けって言われた。
パパ、それしか言わなかった。
シボーンは、録音の機械を、止めた。
話したくなかったら、いいよ。
でも、わたし、本当の話が聞きたい。
パパとおじいちゃん、いつも、天気の話しかしないでしょう。
わたし、ずっと、それが不思議だったの。
第四章 本当の話
わたしは、長いあいだ、窓の外の港を見ていた。
それから、シボーンに、録音の機械を、もう一度押してくれと言った。
わたしは、話した。
酒のこと。
パブのこと。
給料の半分のこと。
階段の上の、息子の顔のこと。
事故のこと。
ノラの言ったこと。
それから、三十四年、一滴も飲んでいないこと。
話しているあいだ、シボーンは、一度も、わたしから目をそらさなかった。
話し終わると、シボーンは、しばらく、黙っていた。
それから、言った。
おじいちゃん、話してくれて、ありがとう。
わたし、さっきまでの話、ちょっと、うそっぽいと思ってたの。
きれいすぎて。
でも、今の話を聞いて、さっきの話も、本当だって、わかった。
嵐の夜も、ダンスの夜も。
おじいちゃんが、本当にいた人だって、わかった。
シボーンは、少し、泣いていた。
わたしも、泣いていた。
第五章 金色には、しなかった
思い出は、金色にすると、きれいになる。
わたしは、五十年、そうしてきた。
港の朝、嵐の夜、ダンスの夜。
でも、金色の思い出の中には、本当のわたしが、いなかった。
酒を飲んで、息子を階段の上に立たせていた男。
それも、わたしだった。
そして、三十四年、毎晩、パブの前を通りすぎてきた男。
それも、わたしだった。
苦いところを抜いたら、パブの前を通りすぎた三十四年も、意味が無くなる。
ノラがわたしを待ってくれた十年も、意味が無くなる。
ノラは、生きているあいだ、だれにも、あの十年のことを話さなかった。
わたしの顔をつぶさないように。
でも、それで、わたしの話は、半分になっていた。
金色の半分だけが、残っていた。
シボーンは、残りの半分を、聞きに来てくれたのだ。
苦いところがあったから、残りの話が、本当になったのだ。
その夜、シボーンは、息子に電話をかけた。
パパ、おじいちゃんの話、全部、聞いたよ。
それから、受話器を、わたしに渡した。
受話器の向こうで、息子は、長いあいだ、黙っていた。
それから、言った。
父さん、今度の週末、帰るよ。
話したいことが、あるんだ。
エピローグ
週末、息子が帰ってきた。
わたしたちは、港の堤防を、二人で歩いた。
風が強かった。
息子は、階段の上から見ていた夜のことを、話した。
わたしは、黙って聞いた。
それから、すまなかった、と言った。
四十年かかって、やっと言えた言葉だった。
息子は、うなずいた。
それから、言った。
父さんが、パブの前を通りすぎるのも、ぼくは、見てたよ。
毎晩、ずっと。
わたしは、立ち止まった。
息子は、少し笑った。
ぼくの記憶では、そっちのほうが、ずっと長い。
毎晩、窓から、父さんがパブの前で足を止めないのを、見てた。
最初は、今日はだめかもしれないって、思いながら。
そのうち、見なくても、わかるようになった。
わたしは、何も言えなかった。
三十四年、だれにも見られていないと思っていた。
でも、息子は、見ていたのだ。
わたしたちは、堤防の先まで歩いた。
夕方の光が、海の上に、低く差していた。
金色ではなかった。
灰色の、いつもの海だった。
わたしは、その色が、いちばん好きだと思った。
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