弟の写真
金色には、しなかった

朗読で聴く
第一章 仏壇の笑顔
四十八になった。
地方の町で、夫と二人で暮らしている。
実家は、車で三十分の、となりの町にある。
七十六の父と、七十四の母が、二人で住んでいる。
わたしには、弟がいた。
三つ年下の、ひろしという弟だった。
十六年前、ひろしは、バイクの事故で死んだ。
二十九だった。
実家の仏壇には、ひろしの写真が飾ってある。
大学の入学式の日に、スーツを着て撮った写真だ。
きちんと髪をととのえて、少しはにかんで、笑っている。
母は、毎朝、その写真に、ごはんとお茶を供える。
そして、写真に向かって、話しかける。
ひろちゃんは、本当に、いい子だったねえ。
やさしくて、まじめで、親思いで。
父も、うなずく。
あの子は、だれにでも好かれる子だった。
十六年、両親は、ひろしのことを、そうとしか言わなかった。
ひろしの部屋は、そのまま残してある。
机の上も、本棚も、十六年前の日のままだ。
母は、毎週、そこを掃除する。
ほこりを払って、窓を開けて、また閉める。
部屋の中は、ひろしが住んでいたころより、ずっと、きれいになった。
ひろしの部屋は、いつも散らかっていたのに。
第二章 わたしの知っている弟
わたしは、両親の話を聞くたびに、少し、居心地が悪かった。
わたしの知っている弟は、そういう子ではなかったからだ。
ひろしは、調子のいい子だった。
宿題は、いつも、わたしに写させてもらいに来た。
テストで悪い点を取ると、答案を、わたしの部屋の本棚に隠した。
大学は、二年で、ほとんど行かなくなった。
アルバイトも、長続きしなかった。
わたしは、何度も、お金を貸した。
返ってきたのは、半分くらいだ。
姉ちゃん、今度、絶対返すけん、と言うのが、口ぐせだった。
でも、ひろしは、面白い子だった。
だれかが落ちこんでいると、必ず、変な顔をして笑わせた。
わたしが失恋した夜、ひろしは、コンビニのプリンを十個買ってきた。
全部、食べていいけん、と言った。
お金は、わたしが貸したお金だった。
わたしは、泣きながら笑った。
そういう弟だった。
でも、仏壇の前で、そういう話をすると、母は、悲しそうな顔をした。
そんなこと、言わんでよ。あの子は、いい子だったとよ。
だから、わたしは、十六年、黙っていた。
仏壇の写真の弟は、少しずつ、知らない人になっていった。
第三章 十七回忌
この秋、ひろしの十七回忌があった。
親戚が、実家に集まった。
お坊さんが帰ったあと、みんなで、お茶を飲んでいた。
親戚の人たちも、母に合わせて、ひろしをほめた。
やさしい子だった。まじめな子だった。
だれも、ひろしの変な顔の話は、しなかった。
わたしは、台所で、お茶のおかわりをいれながら、聞いていた。
ひろしが、どこにもいない気がした。
そこへ、一人の男の人が、訪ねてきた。
ひろしの、高校のときからの友だちの、たけしさんだった。
四十五になって、少し、おなかが出ていた。
たけしさんは、仏壇に手を合わせてから、母に、頭を下げた。
遅くなって、すみません。
十六年、来ようと思っては、来られんかったです。
母は、よく来てくれたねえ、と言って、たけしさんにお茶を出した。
それから、いつものように、言った。
ひろちゃんは、本当に、いい子だったでしょう。
たけしさんは、少し、黙った。
それから、困ったように、笑った。
いや、おばさん。あいつ、ずるかったですよ。
部屋が、しんとなった。
第四章 ずるかった弟
たけしさんは、話しはじめた。
ぼく、あいつに、さんざん、お金を貸したんです。
返ってきたのは、半分くらいかな。
試験の前は、いつも、ぼくのノートを持っていって、返さんし。
わたしは、思わず、吹き出した。
それ、わたしも、同じ。
たけしさんが、わたしを見て、笑った。
姉ちゃんにも、借りとったとですか。
でも、とたけしさんは、続けた。
ぼくが、高三で父親を亡くしたとき。
あいつ、毎晩、うちに来て、くだらん話ばっかりして、帰っていったんです。
一か月、毎晩。
ぼくが笑うまで、帰らんかった。
あいつが、ずるくて、調子がよくて、くだらんやつやったけん、ぼくは、あの冬を越せたんです。
いい子やったら、たぶん、だめやった。
部屋の中が、静かだった。
そのとき、母が、小さく、笑った。
そうやった。
あの子は、ずるかった。
母は、もう一度、笑った。
テストの答案、お姉ちゃんの本棚に隠しよったもんね。お母さん、知っとったとよ。
それから、母は、泣いた。
十六年で、初めて、ひろしのことで、笑って、泣いた。
第五章 金色には、しなかった
その夜、親戚が帰ってから、母が、わたしに言った。
お母さんね、こわかったとよ。
あの子の悪いところを思い出したら、あの子を、責めることになる気がして。
だから、いいところだけを、覚えとこうと思った。
でも、そうしたら、だんだん、あの子の声が、聞こえんようになった。
わたしは、母の手を、にぎった。
思い出を、金色にすると、きれいになる。
でも、その中に、本人は、いなくなる。
ずるくて、調子がよくて、お金を返さない弟。
失恋した姉に、借りたお金でプリンを十個買ってくる弟。
両方が、ひろしだった。
母は、少し考えてから、言った。
お母さんも、あの子にお金を貸しとったとよ。
お父さんには、内緒で。
わたしは、驚いて、母を見た。
母は、いたずらを見つかった子どものように、笑った。
あの子、お母さんにも、絶対返すけん、って言いよった。
二人で、声を出して、笑った。
台所で新聞を読んでいた父が、何がおかしいとか、と聞いた。
悪いところを抜いたら、プリンの夜も、無くなってしまう。
たけしさんの冬も、無くなってしまう。
わたしは、十六年、黙っていたことを、少し、後悔した。
でも、黙っていたのは、母を守りたかったからだ。
たけしさんが、それを、ほどいてくれた。
たけしさんは、帰りぎわに、玄関で、わたしに言った。
姉ちゃん、あいつ、姉ちゃんのこと、自慢しとったですよ。
うちの姉ちゃんは、お金を貸してくれるけん、って。
わたしは、笑った。
それは、自慢じゃなかろう。
たけしさんも、笑った。
あいつなりの、自慢です。
父が、仏壇の前で、ぽつりと言った。
写真、変えてもいいかもしれんな。
エピローグ
次の週、わたしは、古いアルバムを持って、実家に行った。
母と二人で、一枚ずつ、めくった。
ひろしが、変な顔をしている写真が、たくさんあった。
鼻に割り箸を入れている写真。
わたしの誕生日のケーキを、先に食べている写真。
母は、一枚ごとに、笑った。
最後に、二人で、一枚を選んだ。
ひろしが十九のとき、家の縁側で、すいかを食べながら、こっちを見て笑っている写真。
口のまわりが、赤く汚れている。
きれいな写真では、ない。
でも、いちばん、ひろしだった。
母は、その写真を、仏壇に飾った。
それから、写真に向かって、言った。
ひろちゃん、お姉ちゃんに、お金、返しなさいよ。
わたしは、笑った。
写真の弟も、笑っていた。
口のまわりを、赤くしたまま。
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