明るい先生
明るい部屋でも、奥は影だった

朗読で聴く
第一章 教室の明かり
四十七になった。
海に近い小さな町の、小学校で、先生をしている。
二十二で先生になって、二十五年になる。
今は、四年生の担任だ。
夫と、高校生の娘と、三人で暮らしている。
わたしは、明るい先生、と言われてきた。
朝、教室に入ると、まず、大きな声で、おはよう、と言う。
冗談を言って、子どもたちを笑わせる。
休み時間には、校庭で、いっしょにドッジボールをする。
給食の時間には、班を回って、いっしょに食べる。
帰りの会では、その日いちばん笑ったことを、一人ずつ言わせる。
わたしが、いちばん、大きな声で笑う。
保護者会でも、先生がいると明るくなる、と言われる。
職員室でも、同じだ。
通知表の欄には、毎年、同じようなことを書かれる。
いつも笑顔で、クラスを明るくしてくれる先生です。
それは、うれしいことだった。
でも、わたしには、だれにも話していない奥がある。
第二章 奥の暗がり
わたしの父は、酒を飲む人だった。
仕事から帰ると、毎晩、飲んだ。
飲むと、大きな声を出し、物を投げた。
母は、黙って、片づけていた。
わたしは、二階の自分の部屋で、布団をかぶって、音を聞いていた。
子どものころの夜は、ほとんど、そういう夜だった。
学校では、だれにも言わなかった。
家のことを聞かれると、笑って、ごまかした。
明るい子だね、と先生に言われた。
わたしは、明るくしているしかなかったのだ。
父は、わたしが二十のときに、肝臓をこわして死んだ。
母は、それから、ずっと静かに暮らして、五年前に死んだ。
わたしは、先生になった。
明るい先生に。
でも、教室の明かりの奥には、いつも、あの夜の暗さがあった。
ときどき、子どもの中に、昔のわたしと同じ顔を見つけることがある。
笑っているのに、目の奥が、少し、暗い子。
家のことを聞かれると、すぐに話をそらす子。
そういう子を見ると、わたしは、胸が苦しくなった。
声をかけたかった。
でも、なんと言えばいいのか、わからなかった。
自分の奥の暗がりを、だれにも見せたことがなかったからだ。
わたしの明るさは、うその明るさなのではないか。
そう思うことも、あった。
第三章 十六年前の子
この秋、学校の創立百周年の式があった。
昔の卒業生が、たくさん集まった。
式のあと、体育館を片づけていると、若い女の人が、近づいてきた。
先生、覚えてますか。
わたしは、その顔を、じっと見た。
目の形に、見覚えがあった。
十六年前、わたしが三十一で、初めて四年生を受け持ったときの子だった。
美咲ちゃん、と言うと、その人は、うなずいた。
二十六になりました。今、看護師をしてます。
美咲ちゃんは、あのころ、よく、教室に残っていた子だった。
放課後、帰りたくなさそうに、わたしの机のそばで、本を読んでいた。
腕に、小さなあざがあった日もあった。
転んだの、と美咲ちゃんは言った。
わたしは、それ以上、聞けなかった。
聞いたら、自分の奥の暗がりまで、開けてしまいそうだった。
わたしは、何も聞かなかった。
ただ、いっしょに、教室にいた。
暗くなるまで。
暗くなると、美咲ちゃんは、本を閉じて、帰っていった。
先生、さよなら、と小さな声で言って。
わたしは、そのうしろ姿を、窓から見送った。
あの子を、あの家へ送り出すしかなかったことが、ずっと、心に残っていた。
次の年、美咲ちゃんは、遠くの町へ引っ越していった。
美咲ちゃんは、少し迷ってから、言った。
先生に、ずっと、言いたいことがあったんです。
第四章 奥を知っている明るさ
うちの父、お酒を飲む人だったんです。
美咲ちゃんは、静かに言った。
あのころ、家に帰るのが、こわかった。
わたしは、息が止まりそうになった。
だれにも、言えなかった。
でも、先生には、言わなくても、わかってもらえてる気がしたんです。
先生、明るかったけど、ときどき、教室の奥のほうを、ぼんやり見てたでしょう。
放課後、窓の外が暗くなっても、電気をつけないで、座ってたでしょう。
わたし、あれを見て、この先生は、知ってる人だって、思ったんです。
暗いところを、知ってる人だって。
だから、先生の明るさは、こわくなかった。
ほかの大人の明るさは、ときどき、こわかったんです。
何も知らない人の、明るさだったから。
美咲ちゃんは、わたしの手を、にぎった。
先生が、何も聞かないで、いっしょにいてくれたから。
わたし、毎日、家に帰れたんです。
わたしは、涙がこぼれそうになるのを、こらえた。
それから、こらえるのを、やめた。
体育館の、ステージの袖の、暗いところで。
第五章 奥は影だった
わたしは、自分の明るさを、うそだと思っていた。
奥に、暗い夜を隠した、明るさだと。
でも、そうでは、なかった。
どんなに明るい教室にも、奥には、影がある。
その影を知っていたから、わたしは、美咲ちゃんの影に、気がついた。
影を知っていたから、何も聞かずに、そばにいられた。
わたしの明るさは、奥の影ごと、明るさだったのだ。
影の無い明るさは、影の中にいる子には、まぶしすぎる。
美咲ちゃんは、それを、教えてくれた。
美咲ちゃんは、最後に、もう一つ言った。
わたし、今、小児科の看護師なんです。
ときどき、笑っているのに目の奥が暗い子が、入院してくる。
そういう子のそばでは、わたし、電気を少しだけ暗くするんです。
先生がしてくれたみたいに。
帰り道、わたしは、母の墓に寄った。
お母さん、と心の中で言った。
あの夜のこと、わたし、もう、隠さなくていいみたい。
夕日が、墓石を、赤く照らしていた。
家に帰ると、高校生の娘が、台所にいた。
お母さん、目、赤いよ。どうしたの。
わたしは、少し考えてから、言った。
今日ね、昔の教え子に会ったの。
それから、おじいちゃんの話を、少し、してもいい?
娘は、驚いた顔をして、それから、うなずいた。
わたしは、初めて、娘に、あの夜のことを話した。
父の大きな声のこと。投げられた茶わんのこと。
布団の中で、朝が来るのを待っていたこと。
娘は、途中で、わたしの横に座った。
話し終わると、娘は、しばらく黙っていた。
それから、言った。
お母さんが、ときどき、夜に一人で台所にいるの、知ってたよ。
電気も、つけないで。
わたしは、少し笑った。
この家にも、奥はあったのだ。
エピローグ
次の週の月曜日も、わたしは、大きな声で、おはよう、と言った。
子どもたちが、笑った。
いつもの、明るい教室だった。
でも、わたしは、教室のいちばん後ろの席を、少し長く、見た。
窓ぎわの、陽の当たらない席。
そこに座っている男の子が、笑いながら、目を伏せていた。
放課後、その子は、帰らずに、本を読んでいた。
わたしは、何も聞かなかった。
ただ、自分の机で、テストの丸つけをした。
窓の外が、少しずつ、暗くなっていった。
わたしは、電気をつけなかった。
男の子が、本から顔を上げて、こちらを見た。
わたしは、少しだけ、笑った。
男の子も、少しだけ、笑った。
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