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奥の納戸

明るい部屋でも、奥は影だった

奥の納戸

朗読で聴く

第一章 明るい家

七十になった。

城下町の古い通りの、大きな家に住んでいる。

二十四で、この家に嫁いできた。

それから、四十六年になる。

夫は、七十四。

長男の一家と、いっしょに暮らしている。

長男は四十四で、お嫁さんの由美さんは四十。

孫が二人いて、十二と九つになる。

三世代、六人の家だ。

近所の人は、この家のことを、明るい家と言う。

いつも、だれかが笑っている。

玄関の戸は、朝から晩まで、開いている。

夕方には、孫の友だちが、台所でおやつを食べていく。

お盆と正月には、親戚が二十人も集まる。

わたしは、その真ん中で、ずっと、ごはんを作ってきた。

朝は五時に起きて、六人分の朝ごはんと、四つのお弁当を作る。

昼は、近所のおばあさんたちが、縁側でお茶を飲んでいく。

夜は、八人がけのテーブルが、いつも、いっぱいになる。

夫は、無口な人で、にぎやかなのは、わたしのほうだ。

台所の明かりは、朝から晩まで、ついている。

この家の明るさは、わたしが作ってきたのだと、少しだけ思っている。

でも、だれにも言っていないことが、一つある。

家の奥に、窓の無い、小さな納戸がある。

三畳ほどの、物置の部屋だ。

古い布団や、季節の道具や、お客用の座布団が、しまってある。

電気をつけなければ、昼でも、まっ暗な部屋だ。

第二章 納戸で泣いた日

嫁いできた年の冬、わたしは、初めて、その納戸で泣いた。

しゅうとめに、味噌汁の味のことで、親戚の前で叱られた日だった。

台所で泣くわけにはいかなかった。

だから、座布団を取りに行くふりをして、納戸に入った。

戸を閉めると、まっ暗だった。

その暗さの中で、声を出さずに、少しのあいだだけ泣いた。

それから、顔を洗って、台所に戻った。

だれも、気がつかなかった。

それから、四十六年。

つらいことがあると、わたしは、納戸に入った。

三十のとき、二人目の子を、おなかの中で亡くした日。

実家の母が死んだ日。

夫の会社が傾いて、家を売るかどうか、話し合った夜。

しゅうとめの介護で、眠れない日が続いた冬。

いつも、少しのあいだだけ。

納戸の中は、樟脳と、古い綿の匂いがした。

座布団の山にもたれると、少しだけ、体が楽になった。

暗いから、自分の顔も、見えない。

どんな顔で泣いているのか、知らなくてすんだ。

それから、顔を洗って、台所に戻って、笑った。

家族の前では、一度も泣かなかった。

この家は、明るい家でなければならないと思っていた。

わたしが暗い顔をしたら、家ぜんぶが、暗くなる。

だから、暗いものは、全部、奥の納戸に置いてきた。

明るい台所と、まっ暗な納戸。

それが、わたしの四十六年だった。

わたしは、それを、少し、恥ずかしいことだと思っていた。

本当は、明るい人間ではないのだと。

第三章 戸のすきま

この秋、夫が、軽い心臓の病気で、入院した。

命に別状は無い、と医者は言った。

でも、わたしは、病院から帰ると、まっすぐ納戸に入った。

四十六年連れ添った人が、いなくなるかもしれない。

そう思ったら、体が、震えた。

戸を閉めて、まっ暗な中で、座布団の山にもたれて、泣いた。

そのとき、戸が、少しだけ開いた。

廊下の明かりが、細く、入ってきた。

由美さんだった。

わたしは、あわてて、顔をそむけた。

ごめんなさい、座布団を取りに来ただけ、と言おうとした。

でも、由美さんは、何も言わずに、納戸に入ってきた。

そして、戸を閉めた。

まっ暗になった。

由美さんは、わたしの横に、座った。

しばらく、二人とも、黙っていた。

それから、由美さんが、小さな声で言った。

お母さん、わたしも、ここに来るんです。

第四章 泣いていい場所

わたしは、暗い中で、由美さんの顔を見ようとした。

何も、見えなかった。

由美さんは、話しはじめた。

嫁いできて、三年目くらいのときでした。

夜中に、お母さんが、この納戸から出てくるのを見たんです。

目が、赤かった。

でも、次の朝、お母さんは、いつもみたいに笑って、お弁当を作ってた。

わたし、そのとき、わかったんです。

この家の明るさは、ここがあるから、明るいんだって。

由美さんの声が、少し、震えていた。

わたしも、つらいとき、ここに来て泣きます。

上の子が病気で入院したときも。

仕事を辞めたときも。

ここで泣いて、顔を洗って、台所に戻るんです。

お母さんが、そうしていたから。

泣いていい場所が、この家にはあるんだって、思えたから。

わたしは、何も言えなかった。

四十六年、だれにも見られていないと思っていた。

でも、由美さんは、見ていた。

そして、同じことを、していた。

由美さんは、少し笑った。

この前、上の子が、友だちとけんかした日も、ここに入っていったんですよ。

わたし、見て見ないふりをしました。

お母さんが、わたしにしてくれたみたいに。

わたしは、驚いた。

わたしは、由美さんが納戸に入るのを、一度も見たことがなかった。

見ないふりをしたことも、無かった。

本当に、知らなかったのだ。

由美さんが、暗い中で、わたしの手を探して、にぎった。

お父さん、大丈夫ですよ。

わたしは、うなずいた。

暗くて、見えなかったはずなのに。

第五章 奥は影だった

明るい家だと、人は言う。

台所にも、居間にも、玄関にも、明かりがついている。

でも、どんなに明るい家にも、奥には、暗いところがある。

わたしは、それを、恥ずかしいことだと思っていた。

でも、そうでは、なかったのかもしれない。

納戸が暗かったから、わたしは、泣けた。

泣けたから、台所に戻れた。

台所に戻れたから、この家は、明るかった。

奥の影は、明るさの、裏側ではなかった。

明るさの、一部だったのだ。

わたしは、しゅうとめのことを、思い出した。

厳しい人だった。

でも、亡くなる前の年、一度だけ、納戸の前で、すれちがったことがある。

しゅうとめは、目が、赤かった。

わたしは、それを、見なかったことにした。

あの人も、ここに来ていたのかもしれない。

この家の奥の暗がりは、わたしより、ずっと古かったのだ。

由美さんも、それを、知っていた。

四十六年、わたしが一人だと思っていた暗がりに、もう一人、いたのだ。

二人で、しばらく、納戸に座っていた。

台所のほうから、孫たちの笑い声が、聞こえてきた。

テレビを見ているのだろう。

その声が、暗い納戸の中で、いっそう、明るく聞こえた。

由美さんが、そろそろ、ごはんにしましょうか、と言った。

わたしは、うなずいて、立ち上がった。

戸を開けると、廊下の明かりが、まぶしかった。

エピローグ

夫は、十日で、退院した。

家は、また、いつもの明るい家に戻った。

ある日の午後、わたしは、納戸の片づけをした。

古い布団を、少しだけ、処分した。

座布団の山の横に、小さな場所が、できた。

そこに、座布団を、二枚、並べて置いた。

一枚は、わたしの。一枚は、由美さんの。

電気は、つけないままにした。

ここは、暗いままがいい。

納戸を出て、戸を閉めた。

台所に戻ると、由美さんが、夕ごはんの支度をしていた。

わたしは、その横に立って、味噌汁の味をみた。

少し、薄かった。

でも、わたしは、ちょうどいいね、と言った。

由美さんは、少し笑って、そうですか、と言った。

ソウルミッション358

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