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戸口のパン

白いのは、形の中だけだった

戸口のパン

朗読で聴く

第一章 夜のパン屋

七十四になった。

カナダの東の、ノバスコシアの、小さな漁港の町に住んでいる。

港のまわりに、木の家が、百軒ほど並んだ町だ。

わたしは、この町で、四十五年、パンを焼いてきた。

港の坂の途中の、小さなパン屋だ。

二十九のときに、前の主人から、店を買った。

妻のルースは、三年前に死んだ。

店は、二人でやってきた。

わたしが夜にパンを焼き、ルースが昼に店に立った。

ルースは、町じゅうの人の名前を知っていた。

だれがどのパンを好きか、だれの家に赤ちゃんが生まれたか。

わたしは、ルースから、それを聞くだけだった。

子どもは、二人いる。

娘は、ハリファクスの町で、看護師をしている。

息子は、西の州で、トラックを運転している。

二人とも、パン屋は継がなかった。

わたしも、継いでくれとは、言わなかった。

パン屋の仕事は、夜の仕事だ。

夜中の二時に起きて、店に入る。

粉をこねて、生地を休ませて、かまどに火を入れる。

焼き上がるのは、朝の五時ごろだ。

それから、町を回って、パンを配る。

年寄りの家や、漁師の家には、白い紙の袋に入れて、戸口に置いていく。

町が起きるころ、わたしは、もう、仕事を終えている。

昼のあいだ、わたしは、眠っている。

袋には、何も書いていない。

名前も、値段も。

どの家に、どのパンを置くかは、全部、頭の中に入っている。

漁師の家には、大きな田舎パン。

一人暮らしの年寄りには、小さな丸パンを、二つ。

代金は、月の終わりに、ルースが、まとめてもらいに行った。

第二章 青い町

四十五年、わたしは、明るい町を、ほとんど知らない。

夜明け前の町は、いつも、青い。

空も、海も、家も、道も、ぜんぶ、同じ、暗い青だ。

その中を、わたしは、パンの袋を抱えて、歩いてきた。

だれにも、会わなかった。

たまに、早起きの犬が、吠えるくらいだ。

子どもたちの学芸会にも、ほとんど行けなかった。

昼に眠らないと、夜に起きられないからだ。

娘の卒業式には、パンを焼いてから、眠い目で出た。

息子の野球の試合は、一度も見なかった。

ルースは、笑って言った。

あなたは、町の人に、顔を知られていないパン屋ね。

本当に、そうだった。

町の人は、わたしのパンを知っていても、わたしの顔は知らなかった。

夜の青の中で、四十五年。

わたしの一生は、だれにも見られない、一面の青だった。

この春、医者に、腰のことを言われた。

もう、夜中に粉の袋を運ぶのは、やめたほうがいい。

わたしは、店を閉めることにした。

店の戸に、閉店のお知らせを貼った。

それを書いたのは、娘だ。

わたしは、字を書くのが、苦手だった。

四十五年、ありがとうございました、と娘は書いた。

わたしは、それを読んで、少し、困った。

ありがとうと言われるようなことを、した覚えがなかったからだ。

ただ、毎晩、パンを焼いていただけだ。

第三章 最後の朝

最後の朝も、わたしは、二時に起きた。

いつもと同じように、粉をこねて、かまどに火を入れた。

五時に、パンが焼き上がった。

わたしは、白い紙の袋に、一つずつ入れた。

四十二軒分。

それを、古い木の台車に積んで、坂を下りた。

町は、いつもと同じように、青かった。

でも、一軒目の家で、わたしは、足を止めた。

戸口の明かりが、ついていた。

戸が開いて、年をとった女の人が、出てきた。

マーサだった。

マーサは、袋を受け取って、言った。

十年前、夫の葬式の朝ね。

わたし、何も食べる物を用意していなかったの。

そしたら、戸口に、この袋があった。

親戚が来て、みんなで、あなたのパンを食べたのよ。

マーサは、わたしの手を、にぎった。

第四章 白い袋

二軒目の家も、明かりがついていた。

若い漁師の男が、赤ちゃんを抱いて、立っていた。

この子が病院から帰ってきた朝、袋がありました。

妻が、泣いて、喜んだんです。

三軒目は、学校の先生の家だった。

冬の嵐で、町が停電した朝。

どこの家も、パンを焼けなかった。

でも、あなたの袋は、ちゃんと、戸口にあった。

どの家でも、同じだった。

明かりがついていて、だれかが、待っていた。

みんな、あの袋が置いてあった朝のことを、覚えていた。

ある家では、小さな男の子が、戸口に立っていた。

パジャマのまま、目をこすっていた。

ぼく、パンの人を、見たかったの、と男の子は言った。

いつも、起きたら、もう、袋だけあるから。

わたしは、袋を、男の子に渡した。

男の子は、わたしの顔を、じっと見ていた。

それから、にっこり笑った。

パンの人、ほんとにいたんだね。

わたしは、四十二軒を回った。

最後の家を出るころ、空が、少しずつ、明るくなりはじめた。

坂の上から、町を見下ろした。

家々の戸口に、白い袋が、一つずつ、並んでいた。

夜明けの青い町の中で、白いのは、その袋の形だけだった。

第五章 白いのは、形の中だけ

わたしは、坂の上に、長いあいだ、立っていた。

四十五年、わたしは、青の中を歩いてきたと思っていた。

だれにも見られない、一面の青だと。

でも、毎朝、その青の中に、白い形を、一つずつ置いてきたのだ。

葬式の朝の、戸口に。

赤ちゃんが帰ってきた朝の、戸口に。

停電の朝の、戸口に。

町の人は、わたしの顔を知らなかった。

でも、その白い形は、覚えていた。

いちばん困った朝に、そこにあった、白い袋の形を。

ルースが言ったことは、本当だった。

わたしは、顔を知られていないパン屋だった。

でも、それで、よかったのだと思った。

大事なのは、わたしの顔ではなかった。

朝、戸を開けたときに、そこにある、白い袋だったのだ。

空が、すっかり明るくなった。

港の船が、一隻ずつ、出ていった。

わたしは、四十五年で初めて、朝の町を、見ていた。

家の屋根は、赤や、みどりや、黄色だった。

夜明け前には、ぜんぶ、同じ青に見えていた屋根だ。

わたしは、この町の色を、何も知らなかったのだ。

エピローグ

店に戻ると、かまどは、まだ、あたたかかった。

わたしは、残しておいた生地で、パンを、一つだけ焼いた。

自分の分だ。

四十五年、自分のために焼いたことは、一度も無かった。

焼き上がったパンを、台所のテーブルに置いた。

ルースの好きだった、青い皿にのせて。

窓から、朝の光が、まっすぐ入ってきた。

テーブルの上の、白いパンが、光っていた。

わたしは、コーヒーをいれて、窓のそばに座った。

四十五年で初めての、明るい朝ごはんだった。

パンは、いつもの味がした。

町の人が、毎朝、食べてきた味だ。

食べ終わると、わたしは、娘に電話をかけた。

娘は、夜勤明けで、まだ起きていた。

お父さん、こんな時間に起きてるの、珍しいね、と娘は笑った。

わたしは、今朝のことを、話した。

明かりのついた戸口のこと。

マーサのこと。赤ちゃんのこと。パンの人を見たかった男の子のこと。

娘は、しばらく、黙って聞いていた。

それから、言った。

お母さんは、知ってたよ。

お母さん、月の終わりに代金をもらいに行くたびに、その話を、聞いてきてたもの。

でも、お父さんには言わなかった。

言ったら、お父さん、照れて、袋を置かなくなるからって。

わたしは、窓の外を見た。

坂の下の家々の戸口から、白い袋が、一つずつ、消えていった。

みんな、朝ごはんの時間だった。

ソウルミッション358

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