夏の青写真
白いのは、形の中だけだった

朗読で聴く
第一章 カーテンの部屋
五十八になった。
川のある地方の町で、夫と二人で暮らしている。
夫は、去年、市役所を定年になった。
息子が一人いる。
三十一で、隣の県で、中学校の理科の先生をしている。
わたしは、三十八のときに、うつ病になった。
それから、二十年になる。
よくなったり、悪くなったりを、繰り返してきた。
悪いときは、朝、起き上がれない。
カーテンを閉めた部屋で、一日、布団の中にいる。
ごはんの味も、音楽も、何もわからなくなる。
病気になったとき、息子は、十一だった。
小学五年生だった。
それから、中学、高校と、息子がいちばん大きくなる年月を、わたしは、ほとんど、布団の中で過ごした。
病気になる前のわたしは、よく笑う母親だった、と夫は言う。
息子と二人で、川原で石を投げたり、図書館に通ったりした。
息子は、虫や星が好きな子だった。
夏休みには、二人で、夜の土手に寝ころんで、星を見た。
あれが、夏の大三角、と教えると、息子は、何度も、指でなぞった。
その先が、ぷつりと、切れている。
あの十年を思い出そうとすると、何も出てこない。
閉めたカーテンの、青っぽい暗さだけだ。
第二章 何もしなかった母
運動会には、一度も行けなかった。
授業参観にも、三者面談にも、行けなかった。
ぜんぶ、夫が、仕事を休んで行ってくれた。
部活の試合も、卒業式も。
わたしは、布団の中で、玄関の戸の音を聞いていた。
ただいま、という声。
階段をのぼる足音。
起きていって、おかえりと言いたかった。
でも、体が、動かなかった。
夜、息子が、部屋の戸の外で、しばらく立っていることがあった。
何か、話したかったのだと思う。
でも、わたしが返事をしないと、そのまま、自分の部屋へ戻っていった。
その足音を聞くのが、いちばん、つらかった。
夫は、わたしを一度も責めなかった。
洗濯も、掃除も、夕ごはんも、夫がした。
わたしは、家の中の、何の役にも立たない人だった。
一つだけ、続けたことがある。
中学と高校の六年間、毎朝の、お弁当だった。
起き上がれない日も、それだけは作った。
布団から、台所まで、這うようにして行った日もある。
中身は、いつも同じだった。
卵焼きと、ウインナーと、ごはんに、ふりかけ。
冷凍のおかずを、一つ。
それしか、作れなかった。
ほかのお母さんたちのお弁当は、もっと、きれいだっただろう。
息子に、何も、してやれなかった。
何も、残してやれなかった。
わたしは、ずっと、そう思ってきた。
第三章 押し入れの紙
この夏、息子が、お盆に帰ってきた。
二日目の朝、息子は、押し入れの奥から、古い紙ばさみを出してきた。
来月、授業で、生徒たちと日光写真をやるんだ、と言った。
自分が子どものころにやったのを、見せたくて。
紙ばさみの中には、一枚の紙が入っていた。
中学一年の、夏休みの自由研究だった。
題は、日光写真、と鉛筆で書いてあった。
紙は、一面、深い青だった。
その中に、白い形が、いくつか、浮かんでいた。
日光写真は、薬をぬった紙の上に物を置いて、日に当てて作る。
日が当たったところは、みんな、青くなる。
物の下になって、日が当たらなかったところだけが、白く残る。
息子が、説明してくれた。
夏の昼に、庭で、三十分くらい、日に当てるんだ。
そのあと、水で洗うと、青が、きれいに出てくる。
ぼく、あの日、お母さんの部屋の窓の下でやったんだよ。
お母さんが、起きてきて、見てくれるかもしれないと思って。
わたしは、その日のことを、覚えていなかった。
わたしは、その紙を、見たことがなかった。
息子が中学一年の夏は、わたしが、いちばん悪かった夏だった。
第四章 白い形
わたしは、白い形を、一つずつ見た。
長方形の、角の丸い形。
細い棒が、二本。
丸い形と、小さな鍵の形。
息子が、指さした。
これが、お弁当箱。これが、お箸。
これが、お母さんの湯のみで、これが、家の鍵。
家にある、いちばん大事なものを置きなさいって、先生に言われたんだ。
友だちは、ゲームとか、野球のボールとかを置いた。
ぼくは、これにした。
わたしは、何も言えなかった。
夫が、居間から来て、紙をのぞきこんだ。
ああ、これか、と夫は言った。
先生にね、なんでお弁当箱なのって、聞かれたんだよな。
息子は、うなずいた。
お母さんが作ってくれるから、って答えた。
先生は、それ以上、何も聞かなかった。
そのかわり、紙の裏に、花丸をくれた。
息子が紙を裏返すと、赤い花丸が、まだ、残っていた。
息子は、紙を見ながら、言った。
お母さんが、運動会に来られないの、わかってたよ。
でも、お昼になって、お弁当を開けると、卵焼きが入ってた。
毎日、ちゃんと、入ってた。
お母さんが起きられない日も、お弁当箱だけは、台所にあった。
だから、ぼくは、大丈夫だったんだ。
息子は、少し、笑った。
あの六年間で、ぼくにとって白く残ってるのは、この形だよ。
ほかは、みんな、青くなっちゃったけど。
第五章 白いのは、形の中だけ
わたしにとって、あの十年は、一面の青だった。
閉めたカーテンの、暗い青。
何もしなかった、何も残らなかった年月。
でも、息子の紙も、一面の青だった。
日が当たったところは、みんな、青くなる。
それは、だれの年月でも、同じなのかもしれない。
白く残るのは、その上に、何かが置かれていたところだけ。
わたしが置いたのは、お弁当箱、一つだけだった。
毎朝、一つだけ。
でも、その一つが、息子の青い紙の上に、白く残っていた。
十九年たっても、まだ、くっきりと。
わたしは、カーテンを閉めた部屋で、自分の年月だけを見ていた。
一面の、暗い青だけを。
でも、息子の紙は、息子の年月だった。
その中で、わたしは、ちゃんと、形になって残っていた。
運動会の母としてでも、参観日の母としてでもなく。
毎朝、台所に置かれた、お弁当箱として。
わたしは、紙に、そっと、指をのせた。
お弁当箱の、白い形のところに。
あんな、同じものばかりで、ごめんね、と言った。
息子は、首をふった。
同じだったから、よかったんだよ。
開ける前から、何が入ってるか、わかってた。
それが、うれしかったんだ。
エピローグ
お盆が終わって、息子が帰る朝が来た。
わたしは、いつもより早く起きた。
今日は、体が、少し、軽かった。
台所で、卵を割って、卵焼きを作った。
ウインナーを焼いて、ごはんに、ふりかけをかけた。
冷凍のおかずを、一つ。
息子が起きてきて、台所の弁当箱を見た。
それから、何も言わずに、少し笑った。
車の中で食べてね、と言って、わたしは、包みを渡した。
息子は、両手で、受け取った。
中学のころと、同じ受け取り方だった。
夫が、玄関で、気をつけてな、と言った。
わたしも、その横に立って、手をふった。
息子を、玄関で見送るのは、何年ぶりだろう。
息子の車が見えなくなってから、わたしは、居間の窓のカーテンを開けた。
夏の日が、まっすぐ、部屋に入ってきた。
青い紙は、息子が、置いていってくれた。
わたしは、それを、日の当たらない、本棚の横の壁にかけた。
白い形が、これ以上、青くならないように。
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