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白い四角

白いのは、形の中だけだった

白い四角

朗読で聴く

第一章 六畳の部屋

七十二になった。

古い住宅地の、小さな平屋に住んでいる。

夫は、去年の秋に死んだ。

七十六だった。

夫は、六十四のときに、脳梗塞で倒れた。

それから十二年、家の奥の六畳で、寝たきりだった。

話すことも、起き上がることも、できなかった。

わたしは、六十だった。

夫とは、二十五で見合いをして、結婚した。

夫は、町の小さな印刷所で、四十年近く働いた人だった。

無口で、冗談も言わない人だった。

でも、日曜の朝には、必ず、わたしの分まで、お茶をいれてくれた。

定年まで、あと一年というときに、倒れた。

二人で、温泉に行こうと、話していた年だった。

六畳の和室は、南に大きな窓がある。

夫が元気なころは、二人で、そこで、お茶を飲んだ部屋だ。

倒れて、病院から帰ってくる日、そこに介護用のベッドを入れた。

窓のそばの、いちばん明るいところに。

夫が、外の木を見られるように。

ベッドは、十二年、一度も動かさなかった。

動かせなかったのだ。

夫の体には、くだがつながっていたし、ベッドは重かった。

だから、畳も、十二年、一度も替えなかった。

ベッドの横には、丸い木の椅子を置いた。

台所で使っていた、背もたれの無い、古い丸椅子だ。

わたしは、毎晩、そこに座った。

第二章 何も残らない十二年

介護の毎日は、同じことの繰り返しだった。

朝、夫の体をふいて、おむつを替える。

くだから、ごはんを入れる。

たんがからむと、機械で吸い取る。

夜は、二時間ごとに起きて、夫の体の向きを変える。

床ずれができないように。

十二年、まとめて眠った夜は、ほとんど無かった。

友だちとの旅行には、行かなかった。

誘われても、断っているうちに、誘われなくなった。

同窓会の葉書も、何年か来て、来なくなった。

夫は、ありがとうと、言えなかった。

わたしの顔が、わかっているのかどうかも、わからなかった。

話しかけても、目は、窓の外を見ていた。

週に二回、訪問看護の人が来てくれた。

それから、月に一度、お医者さんが来た。

それ以外の日は、ずっと、二人きりだった。

夏の夜は、夫の好きだった野球の中継を、ラジオで流した。

夫は、聞いているのか、いないのか、わからなかった。

それでも、わたしは、毎晩、ラジオをつけた。

点が入ると、入ったよ、と夫に言った。

夜中に、一人で、台所で泣いたこともある。

わたしの六十代は、どこへ行ったのだろう。

十二年が、一面の灰色に塗りつぶされたように思えた。

何をしたのか、何を見たのか、何も思い出せない。

ただ、同じ一日が、四千回あまり、続いただけだった。

夫が死んだ朝も、わたしは、いつものように、夫の体の向きを変えようとしていた。

手が、もう、冷たかった。

第三章 ベッドを返す日

夫が死んで、ひと月たって、ベッドを返すことになった。

介護用品の会社から、借りていたものだ。

隣の市に住む娘が、手伝いに来てくれた。

娘は、四十五になる。

十二年、週末ごとに来て、わたしを休ませてくれた子だ。

娘は、夫の着ていたものを、たたんで、箱に入れてくれた。

パジャマが、十二枚あった。

どれも、袖口が、すり切れていた。

わたしが、毎日、着せ替えたものだ。

娘は、一枚ずつ、ていねいに、たたんだ。

会社の若い男の人が二人、ベッドを分解して、運び出した。

あっというまだった。

十二年、動かさなかったものが、昼前には、無くなった。

男の人たちが帰ったあと、わたしと娘は、六畳に立った。

部屋が、急に、広く見えた。

畳は、日に焼けていた。

南の窓から、十二年、毎日、日が当たったのだ。

新しいころの青い色は、もう、どこにも無かった。

一面、茶色っぽく、色があせていた。

その真ん中に、白っぽい長方形が、あった。

ベッドの置いてあったところだ。

そこだけ、日が当たらなかったので、畳の色が、ほとんど、新しいままだった。

娘が、あ、と小さく言った。

第四章 丸い跡

長方形の横に、もう一つ、跡があった。

小さな、丸い、白い跡だった。

わたしの丸椅子の、跡だった。

ベッドの、ちょうど、夫の手のあたりの横。

丸椅子は、ときどき台所へ持っていったけれど、夜は、必ずそこに戻した。

十二年、毎晩、同じところに。

だから、そこだけ、畳が焼けなかったのだ。

日に焼けた茶色の中に、白い形が二つ、並んでいた。

大きな長方形と、小さな丸。

娘が、しゃがんで、丸い跡を、指でなぞった。

お母さん、ずっと、ここにいたんだね。

わたしは、何も言えなかった。

娘は、続けた。

わたし、週末に来るたびに、この椅子にお母さんが座ってるのを見てた。

お父さんの手を、にぎって、寝ちゃってるときもあった。

お父さん、お母さんがいると、顔が、少し、やわらかかったよ。

わたしは、思い出した。

夜中に、夫の手をにぎっていると、ときどき、にぎり返されたことを。

ほんの少しだけ。

気のせいだと思って、だれにも言わなかった。

いちばんよく覚えているのは、倒れて三年目の、冬の夜だ。

外は、雪だった。

わたしは、丸椅子で、うとうとしていた。

ふと目を覚ますと、夫の目が、窓ではなく、わたしを見ていた。

わたしの手の上に、夫の指が、のっていた。

わたしは、動けなかった。

動いたら、夫の指が、離れてしまう気がした。

朝まで、そのままでいた。

次の日から、夫は、また、窓の外を見ていた。

第五章 白いのは、形の中だけ

十二年は、一面の灰色だと思っていた。

何も残らない、塗りつぶされた年月だと。

でも、畳に残ったのは、色あせた茶色だけではなかった。

白く残ったところが、あった。

夫が寝ていたところと、わたしが座っていたところ。

日が当たり続けたところは、みんな、同じように色があせた。

白いまま残ったのは、そこに、だれかがいたところだけだった。

十二年、夫は、そこにいた。

十二年、わたしも、その横にいた。

何もしなかった十二年では、なかった。

二人で、並んでいた十二年だった。

話せなくても、ありがとうと言えなくても。

四千回あまりの、同じ一日。

その一日ごとに、わたしは、丸椅子を、同じところに戻した。

その一日ごとに、夫は、同じところで、わたしを待っていた。

その同じが、畳に、白い形を残したのだ。

同じことを繰り返したから、日に焼けなかった。

一日でも、椅子をよそに置いていたら、丸い跡は、こんなに白くなかっただろう。

わたしは、丸い跡の横に、座った。

娘も、長方形の中に、座った。

お父さんの場所だね、と娘が言った。

二人で、しばらく、窓の外の木を見ていた。

夫が、十二年、見ていた木だ。

葉が、少し、黄色くなりはじめていた。

エピローグ

次の週、娘が、畳を替えようか、と言った。

業者さんに頼めば、一日で、新しくなるよ。

わたしは、少し考えて、まだいい、と答えた。

娘は、うなずいて、それ以上は言わなかった。

その夜、わたしは、台所から丸椅子を持ってきた。

白い、丸い跡の上に、ぴったり、置いた。

脚が、跡のとおりに、おさまった。

座ると、窓の外に、月が出ていた。

ベッドは、もう無い。

でも、白い長方形は、まだ、そこにあった。

わたしは、長方形のほうへ、少しだけ、手をのばした。

おやすみなさい、と言った。

十二年、毎晩、言ってきたように。

ソウルミッション358

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