ガリ版の字
何度も、使われた原紙だった

朗読で聴く
第一章 鉄筆
七十四になった。
山あいの町の、小さな家に一人で住んでいる。
夫は、七年前に死んだ。
娘は、県の大きな町で看護師をしている。
わたしは、二十から六十まで、四十年、町の小学校で事務の仕事をした。
この春、その小学校が、閉校になる。
子どもの数が、とうとう、二十人を切ったのだ。
事務の仕事は、お金の計算や、書類の整理だった。
それから、もう一つ。
ガリ版を、切ることだった。
ろう紙の原紙を、やすりの板の上に置いて、鉄筆で字を書く。
ガリ、ガリ、と音がする。
夜の事務室に、その音は、よく響いた。
書いたところだけ、ろうが削れて、インクが通るようになる。
力を入れすぎると、原紙がやぶれる。
弱すぎると、インクが通らない。
同じ強さで、同じ大きさの字を、一字ずつ。
それを、謄写版にかけて、ローラーで刷る。
学校だより、学級通信、テスト、運動会のプログラム。
毎年三月には、卒業文集。
子どもたちの作文を、一人ずつ、原紙に写した。
字のまちがいも、そのまま写した。
その子の字だと、思ったからだ。
四十年、わたしは、毎晩のように、鉄筆を持っていた。
第二章 薄い刷り
一枚の原紙で、刷れるのは、二百枚くらいだ。
何度も刷ると、原紙がのびて、字がかすれてくる。
後のほうの刷りは、インクがむらになって、読みにくかった。
わたしは、いつも、それが気になっていた。
でも、子どもたちに、配らなければならない。
薄くても、かすれていても、配った。
子どもたちは、学級通信を、ランドセルに押しこんだ。
くしゃくしゃになったものが、廊下に落ちていることもあった。
帰り道の川に、紙飛行機になって浮いていたこともある。
学期の終わりには、事務室のごみ箱が、刷り損じの紙で、いっぱいになった。
わたしが夜中まで切った字だった。
でも、わたしは、何も言わなかった。
紙は、配れば、終わりだ。
読んだら、捨てられる。
わたしの四十年は、そういう紙を、刷り続けただけだった。
娘が小学生のころ、言ったことがある。
お母さんの手、学校の紙と同じ匂いがする。
インクの匂いが、手にしみついていたのだ。
洗っても、なかなか落ちなかった。
先生たちの名前は、子どもたちが覚えている。
事務の人の名前を、覚えている子は、いない。
九十年代に、コピー機が来て、ガリ版は、物置にしまわれた。
わたしの字も、そこで、終わった。
最後の原紙を切った夜のことは、よく覚えていない。
特別な夜では、なかったからだ。
第三章 閉校の日
三月、閉校の式があった。
体育館に、昔の卒業生が、何百人も集まった。
最後に、みんなで校歌を歌った。
わたしが四十年、プログラムの裏に刷り続けた校歌だった。
学校は、式の前に、卒業生に頼んでいた。
学校の思い出の品を、持ってきてください。
展示をしますから。
式のあと、わたしは、教室に並んだ展示を、見て回った。
古い写真。運動会の旗。木の名札。
それから、一つの机の上に、紙の束が、置かれていた。
わたしは、足を止めた。
黄ばんだ、わら半紙だった。
インクは、むらになっていた。
かすれて、読みにくかった。
学級通信だった。
わたしの、鉄筆の字だった。
次の机にも。その次の机にも。
学校だより。運動会のプログラム。卒業文集。
何十枚も、何十冊も、並んでいた。
どれも、わたしが切った原紙から、刷ったものだった。
第四章 捨てられなかった紙
展示の前に、五十くらいの男の人が立っていた。
薄い卒業文集を、大事そうに、手に持っていた。
その人は、わたしの顔を見て、言った。
事務室の、田中さんですよね。
卒業文集の、いちばん後ろに、名前が刷ってありましたから。
わたしは、それを、忘れていた。
毎年、最後のページに、小さく、事務室・田中、と入れていたのだ。
わたしは、うなずいた。
その人は、文集を開いて、見せてくれた。
表紙の字も、わたしの鉄筆の字だった。
中の作文は、子どもたちの字を、わたしが一字ずつ写したものだ。
六年生の作文が、並んでいた。
ぼく、この作文で、初めて、自分の名前が印刷されたんです。
家は貧乏で、本なんか、一冊もなかった。
自分の書いたものが、本みたいになって、うれしくて。
今でも、ときどき、出して読むんです。
かすれてますけど、ちゃんと、読めますよ。
男の人は、文集を閉じて、胸に抱えた。
息子にも、読ませたんです。父さんの字じゃないけど、父さんの作文だって。
となりにいた女の人も、言った。
わたしは、学級通信を、母が、全部とっておいてくれたんです。
母は、夜の仕事で、学校の行事に、一度も来られなかった。
だから、通信を読んで、わたしの学校での毎日を、知っていたんです。
母が死んだとき、押し入れから、六年分、出てきました。
輪ゴムで、学年ごとに、束ねてありました。
母は、字があまり読めなかったんです。
だから、夜、わたしが、声に出して読んであげました。
かすれたところは、二人で、なんて書いてあるのか、当てっこをして。
女の人は、少し笑って、わたしの手をにぎった。
第五章 何度も使われた原紙
わたしは、展示の机の間を、もう一度、ゆっくり歩いた。
体育館から、片づけの音が聞こえていた。
どの一枚にも、わたしの字があった。
かすれた字。
インクのむらで、半分消えかかった字。
何度も刷った原紙から出た、後のほうの、薄い刷りもあった。
でも、その薄い一枚も、だれかの家の押し入れに、四十年、しまわれていた。
わたしは、原紙を、何度も使った。
一枚の原紙から、二百枚。
すり切れるまで、刷った。
わたし自身も、そうだった。
四十年、同じ学校で、同じ仕事を、何度も、何度も。
すり減っただけだと、思っていた。
でも、刷った回数だけ、だれかの手に、紙が届いていた。
一枚ずつ、ちがう家の、ちがう子どものところに。
捨てられた紙も、たくさんあっただろう。
でも、捨てられなかった紙も、こんなにあった。
何度も使われた原紙は、薄くなった。
でも、その代わりに、たくさんの家に、字が届いた。
わたしは、展示の机の前で、しばらく、動けなかった。
かすれた字の一つ一つが、どこかの台所や、押し入れや、引き出しで、四十年、待っていた。
エピローグ
式の帰り、わたしは、物置の鍵を、教頭先生に借りた。
古い謄写版は、まだ、ほこりをかぶって、そこにあった。
やすりの板も、鉄筆も、残っていた。
わたしは、鉄筆を一本、もらって帰った。
鉄筆の先は、すり減って、丸くなっていた。
四十年、何千枚の原紙を切った先だった。
その夜、わたしは、台所のテーブルで、娘に手紙を書いた。
鉄筆ではなく、ボールペンで。
閉校の式のこと。
展示の机に、わたしの字が並んでいたこと。
書き終えて、読み返すと、字は、四十年前と、同じ形をしていた。
少し、ふるえていたけれど。
最後に、小さく、名前を書いた。
母より、と。
手紙を封筒に入れて、鉄筆を、その横に置いた。
窓の外で、春の雨が、静かに降っていた。
あなたの魂のテーマに気づく場所