同じ場所
きちんとしすぎる、と言われてきた

朗読で聴く
第一章 規則の人
六十になった。
この三月で、町の図書館の仕事を終える。
二十二で司書になって、三十八年。
ずっと、同じ図書館で働いてきた。
川ぞいの、古い二階建ての図書館だ。
朝は、紙と、古い木の床の匂いがする。
わたしは、職員のあいだで、規則の人、と呼ばれている。
返却の期限は、一日でも過ぎたら、必ず電話をかける。
館内では、大きな声を出さないように、注意する。
閉館のあと、わたしは、毎晩、書架を一つずつ見て回る。
分類の番号が一つでもずれている本があれば、正しい場所に戻す。
背の高さも、そろえる。
三十八年、それを、一日も休まなかった。
朝は、だれよりも早く来て、返ってきた本を、カートにのせて、棚に戻す。
本を戻すときは、背表紙のラベルを、一冊ずつ指でなぞる。
若い職員は、わたしのいないところで、言っているらしい。
あの人、きっちりしすぎだよね。
もう少し、ゆるくてもいいのに。
わたしも、そう思うことがある。
でも、どうしても、やめられなかった。
ずれた本を見ると、そのままにして帰れないのだ。
夫は、いない。
ずっと、一人で暮らしてきた。
家の本棚も、作家の名前の順に並んでいる。
一冊でも順番がちがうと、夜中でも、起きて直してしまう。
第二章 ゆるくてもいいのに
去年、新しい館長が来た。
四十代の、明るい人だった。
館長は、図書館を、もっと気軽な場所にしたいと言った。
飲み物を持ちこんでもいい席を作り、子どもが走り回ってもいい日を作った。
利用者は、増えた。
飲み物の席では、ときどき、本にしみがついた。
わたしは、黙って、しみを拭いた。
館長は、会議で、わたしに言った。
期限のことは、もう少し、大目に見てもいいんじゃないですか。
電話をかけると、来なくなる人もいますから。
わたしは、はい、と言った。
そうなのかもしれない、と思った。
わたしの三十八年は、人を、図書館から遠ざけていたのかもしれない。
規則を守らせて、注意をして。
本を元の場所に戻すことばかり、考えていた。
人のことを、考えていなかったのかもしれない。
若いころ、一度だけ、利用者に言われたことがある。
あんたは、機械みたいだね。
その夜は、家で、少し泣いた。
それでも、わたしは、閉館のあと、書架を見て回った。
最後の月になっても、やめなかった。
若い職員が、もう、いいんじゃないですか、と笑った。
わたしは、あと少しだから、と答えた。
第三章 四一四の棚
三月の最後の週、閉館まぎわに、一人の男の人が来た。
三十五くらいの、背広を着た人だった。
カウンターの前で、わたしの顔を見て、言った。
まだ、いらっしゃったんですね。
わたしは、その人を、覚えていなかった。
その人は、二階の、算数と数学の本の棚へ行った。
分類の番号で言うと、四一四。図形の本の棚だ。
少しして、一冊の古い本を持って、戻ってきた。
子ども向けの、図形の本だった。
その人は、言った。
二十五年前、ぼくは、十歳でした。
家が、ごたごたしていました。
両親が、毎晩、けんかをしていて、家に帰りたくなかった。
引っこしも、何度もしました。
学校も、三回、変わりました。
友だちも、できては、いなくなりました。
だから、毎日、学校が終わると、ここに来ていました。
閉館の時間まで、ずっと。
そう言われて、窓ぎわの席に、毎日座っていた男の子を、ぼんやり思い出した。
閉館の音楽が鳴るまで、帰らなかった子だ。
第四章 いつも、同じ場所
その人は、本の表紙を、指でなでた。
ぼくの家では、何もかもが、毎日、ちがう場所にありました。
ランドセルも、教科書も、親の機嫌も。
でも、ここに来ると、この本は、いつも、同じ棚の、同じ場所にありました。
だれかが借りても、次の日には、ちゃんと、ここに戻っていました。
ぼくは、毎日、まず、この本があるかを確かめに来ていたんです。
あると、ほっとしました。
閉館の音楽が鳴ると、あなたが、もう時間ですよ、と言いました。
毎日、同じ言葉で、同じ声で。
それも、ぼくには、ありがたかった。
明日も、同じように言ってもらえると思えたから。
世界の中に、一つでも、動かない場所がある気がして。
大人になって、わかったんです。
本が、ひとりでに戻るはずがないって。
だれかが、毎晩、戻していたんだって。
わたしは、何も言えなかった。
二十五年前の、どの夜も、わたしは、書架を見て回っていた。
ずれた本を、一冊ずつ、元の場所に戻していた。
その一冊を、毎日、一人の子どもが、確かめに来ていたとは、知らなかった。
本の後ろの、古い貸し出しカードを見ると、二十五年前の三年間、毎週のように、同じ番号の利用者が借りていた。
返ってくると、わたしが、また、棚に戻していた。
その人は、言った。
今、ぼくは、小学校の先生をしています。
教室の本棚は、いつも、同じ順番に並べています。
子どもたちには、きっちりしすぎだって、笑われますけど。
その人は、少し照れたように、笑った。
第五章 動かない場所
きちんとしすぎる、と言われてきた。
規則の人。
きっちりしすぎ。
もう少し、ゆるくてもいいのに。
わたしも、そう思ってきた。
人を遠ざけているのかもしれない、と。
でも、わたしが毎晩、本を元の場所に戻していたから、一人の子どもには、動かない場所があった。
何もかもが動いてしまう毎日の中で、同じ場所にある一冊が、その子を支えていた。
きちんとすることは、だれかを、しめつけることではなかった。
だれかが、安心して、戻ってこられる場所を、作ることだった。
館長が言ったことも、まちがってはいないと思う。
図書館には、いろいろな人が来る。
ゆるい場所が要る人も、動かない場所が要る人も。
その人は、本をわたしに差し出して、言った。
最後に、ぼくが、戻してもいいですか。
わたしは、うなずいた。
二人で、二階の棚へ行った。
階段の電気をつけると、二階の書架が、いつものように並んでいた。
その人は、背の高さをそろえて、本を、元の場所に戻した。
ぴたりと、すきまに、おさまった。
その人は、しばらく、棚の前に立っていた。
それから、ありがとうございました、と言って、帰っていった。
エピローグ
三月の最後の日、わたしは、いつものように、閉館のあと、書架を見て回った。
若い職員が、後ろから、ついてきた。
あの、わたしも、見て回っていいですか。
わたしは、少しおどろいて、それから、言った。
分類の番号を、よく見てね。
一冊でもずれていたら、元の場所に。
背の高さも、そろえて。
若い職員は、はい、と言った。
若い職員は、わたしより、ずっと時間がかかった。
それで、いいと思った。
わたしも、最初は、そうだった。
二階の、図形の本の棚の前で、わたしは、足を止めた。
あの本は、ちゃんと、同じ場所にあった。
わたしは、背表紙に、そっと指をあてた。
それから、電気を消して、図書館を出た。
川の向こうに、町の明かりが、いつもの場所に並んでいた。
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