おかえり
毎日、人が住んでいた家だった

朗読で聴く
第一章 家の番
五十八になった。
古い城下町の、川ぞいの家に住んでいる。
祖父が建てた、木の二階建てだ。
一階に、台所と居間と仏間。
二階に、兄と妹とわたしの部屋が、三つある。
兄と妹の部屋は、出ていった日のままにしてある。
この冬、母が死んだ。
八十九だった。
最後の八年は、ほとんど寝たきりだった。
わたしは、生まれてから、ずっと、この家にいる。
三十のとき、父が死んだ。
そのとき、兄は東京の会社にいて、妹は大阪で結婚していた。
母を一人にはできなかった。
だから、わたしが、家に残った。
結婚は、しなかった。
町の信用金庫に、二十年つとめて、やめた。
母の介護が、いそがしくなったからだ。
旅行も、ほとんど、したことがない。
母が寝たきりになってからは、夜中に、二度ずつ起きた。
体の向きを変えて、水を飲ませて、また寝た。
わたしの一生は、この家の番だった。
そう思っていた。
兄も妹も、外で、自分の人生を生きた。
兄は、部長になって、子どもが三人。
妹は、一度離婚して、今は、大阪で店をやっている。
わたしには、話すようなことが、何も無い。
毎日、雨戸を開けて、ごはんを作って、母の体を拭いて、雨戸を閉めた。
それを、二十八年。
朝は、川の音で目がさめる。
夕方は、川べりを散歩する人の声が、窓の下を通る。
それが、わたしの知っている、世界のほとんどだった。
第二章 法事
三月、母の法事をした。
兄と妹が、帰ってきた。
法事のあと、三人で、居間のこたつに座った。
三人だけで話すのは、何年ぶりだろう。
兄が、言いにくそうに、切り出した。
この家、どうしようか。
古いし、修理にもお金がかかる。
おまえ一人で住むには、広すぎるだろう。
売って、駅の近くのマンションに移ったらどうだ。
兄は、不動産屋の名刺を、こたつの上に置いた。
東京で、もう話を聞いてきたらしい。
妹も、うなずいた。
姉さん、もう、自分のために生きていいんだよ。
ずっと、この家に、しばられてきたんだから。
わたしは、そうだね、と言った。
しばられてきた。
そうかもしれない、と思った。
この家がなくなれば、わたしは、自由になる。
でも、自由になって、何をすればいいのか、わからなかった。
旅行に行く、と言っても、どこへ行けばいいのか。
わたしの毎日は、この家の形に、ぴったり合っていた。
台所の流しの高さも、階段のきしむ段も、体が覚えていた。
その夜、わたしは、いつものように、台所で、みそ汁を作った。
兄と妹のぶんも、作った。
母が、ずっと作っていた、なすと油あげのみそ汁だ。
第三章 玄関の声
夕ごはんのとき、兄が、みそ汁を一口飲んで、箸を止めた。
しばらく、何も言わなかった。
それから、ぽつりと、言った。
この味だ。
兄は、子どものころから、口数の少ない人だった。
兄は、お椀を持ったまま、話しはじめた。
東京に出て、最初の十年は、つらかった。
仕事で失敗して、会社をやめようと思ったことも、何度もある。
そういうとき、おれは、盆と正月に、ここに帰ってきた。
玄関を開けると、いつも、おまえが、台所から顔を出して、言うんだ。
おかえり。
それだけ。何があったとも、聞かない。
それで、この味のみそ汁が出てくる。
二階のおれの部屋は、高校のときのままで、布団が干してある。
それで、東京に戻って、また、がんばれた。
大学の受験に落ちた年も、会社で、地方の支店に回された年も、帰ってきた。
二階の窓から、川の音が聞こえるんだ。
あれを聞いて寝ると、ねむれた。
帰る家があるって、そういうことなんだ。
兄の声が、少しふるえていた。
わたしは、知らなかった。
兄は、帰ってきても、いつも、だまって、テレビを見ていた。
ありがとう、と言われたことも、一度も無かった。
でも、兄は、毎年、必ず、帰ってきた。
第四章 二か月
妹も、言った。
わたしが、離婚したときのこと、覚えてる。
十五年前。
娘が、まだ六つだった。
何も言わずに、娘を連れて、この家に帰ってきた。
姉さんは、玄関で、おかえり、って言った。
理由も、何も、聞かなかった。
その日の夜から、ごはんが三人分、増えてた。
二か月、ここにいた。
娘が熱を出した夜、姉さん、朝まで、氷まくらを替えてくれたよね。
娘は、毎朝、姉さんと、川べりを散歩してた。
あの子、今でも言うんだよ。
おばさんの家の朝は、いつも同じで、安心したって。
あの子、今、二十一だよ。
大学で、保育の勉強をしてる。
わたしは、あの二か月で、もう一回、立てたの。
妹は、こたつの上に、手を出して、わたしの手をにぎった。
姉さんが、この家に住んでいてくれたから。
妹は、笑いながら、目をこすっていた。
わたしは、何も言えなかった。
あの二か月のことは、よく覚えている。
でも、特別なことは、何もしていなかった。
いつもと同じように、雨戸を開けて、ごはんを作った。
三人分、多く作っただけだ。
第五章 住んでいた家
毎日、人が住んでいた家だった。
わたしは、この家に、しばられていたと思っていた。
家の番をしているだけだと、思っていた。
でも、ちがった。
わたしが毎日、雨戸を開けて、ごはんを作ったから、この家は、生きていた。
兄の部屋の布団を干して、妹の娘の歯ブラシを、洗面所に置いておいた。
だから、二人には、帰る家があった。
空き家だったら、だれも、帰ってこられない。
家は、人が住まなくなると、すぐに傷む。
となりの家は、空き家になって三年で、雨もりがした。
この家が、九十年たっても、まっすぐ立っているのは、毎日、だれかが窓を開けて、風を通してきたからだ。
だれかが毎日、住んでいるから、おかえり、と言える。
わたしの二十八年は、何も無い年月ではなかった。
毎日、おかえりの準備をしていたのだ。
母も、そうだった。
寝たきりになってからも、玄関の戸が開くと、母は、寝床から、おかえり、と言った。
あの声を、今は、わたしが言っている。
兄が、言った。
売る話は、なしにしよう。
修理のお金は、おれが出す。
妹も、言った。
わたし、夏休みに、娘を連れてくるね。
わたしは、うなずいた。
それから、二人のお椀に、みそ汁のおかわりをついだ。
エピローグ
四月、兄と妹は、それぞれの町に帰っていった。
駅まで、送った。
改札の前で、兄が、言った。
じゃあ、また、帰るよ。
行ってきます、ではなく、帰る、と言った。
妹は、電車の窓から手をふって、夏に、また帰るからね、と言った。
二人とも、帰る、と言った。
次の朝、わたしは、いつものように、六時に起きた。
雨戸を開けると、川の上に、朝の光が広がっていた。
台所で、湯を沸かした。
母のいない朝は、まだ、少し、広い。
二階に上がって、兄の部屋の窓を開けた。
布団を、物干しに、かけた。
夏には、妹と、その娘が来る。
となりの、妹の部屋の窓も、開けた。
だれも帰ってこない日でも、干しておく。
いつ、だれが帰ってきてもいいように。
それが、わたしの、毎日だ。
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