灯りのついた家
毎日、人が住んでいた家だった

朗読で聴く
第一章 最後の一軒
七十六になった。
山あいの、小さな集落に住んでいる。
谷ぞいの細い道に、家が十二軒、並んでいる。
でも、人が住んでいるのは、わたしの家だけになった。
十年前には、まだ五軒あった。
家は、夫の父が建てた、古い平屋だ。
縁側から、谷の向こうの山が見える。
春には、裏の山で、わらびをとる。
一軒ずつ、子どもの住む町へ移ったり、亡くなったりした。
夫は、八年前に死んだ。
息子は、県の大きな町で、家族と暮らしている。
いっしょに住もうと、何度も言ってくれた。
でも、わたしは、ここを出なかった。
出る理由が、なかったのかもしれない。
夫が生きていたころは、夫が、毎晩、玄関の外灯をつけた。
夫が死んでからは、外灯は、つけていない。
だれも、来ないからだ。
毎日は、同じだ。
朝六時に起きて、雨戸を開ける。
台所で、湯を沸かして、みそ汁を作る。
昼は、裏の畑で、少し草をとる。
夕方には、ふろをわかして、早めにごはんを食べる。
暗くなると、居間の電気をつけて、テレビを見る。
夜十時に、電気を消して寝る。
それだけだ。
何も起きない。
だれも来ない。
第二章 何も無い一日
月に二度、息子が車で来る。
食べ物と、薬と、灯油を運んでくれる。
帰りぎわに、息子は、いつも言う。
母さん、こんなところで、一人で、何してるの。
わたしは、何もしてないよ、と答える。
息子の車が、坂を下りていくのを、いつも、縁側から見送る。
赤いテールランプが、谷の向こうの県道に上がって、見えなくなるまで。
本当のことだった。
わたしの一日には、話すことが、何も無い。
朝、雨戸を開けて。
夕方、電気をつけて。
夜、電気を消して。
一年、それを、くり返しているだけだ。
ときどき、自分が、だれもいない家の留守番をしているような気がする。
集落の家は、どこも、雨戸が閉まったままだ。
前は、夕方になると、どの家にも明かりがついた。
台所の窓から、となりの家の、みそ汁のにおいがした。
今は、わたしの家のにおいしか、しない。
屋根に草が生えた家もある。
夜になると、谷じゅうが、真っ暗になる。
その中で、わたしの家の窓だけが、明るい。
だれのための明かりだろう、と思う。
わたしが見るためだけの、明かりだ。
冬の夜は、谷の上に、星がたくさん出る。
人の明かりより、星のほうが、ずっと多い。
そう思っていた。
去年の冬、雪の多い年だった。
わたしは、毎朝、玄関から道まで、雪をかいた。
だれも通らない道だった。
それでも、かかないと、なんだか、落ち着かなかった。
第三章 谷の向こうの道
この春、知らない若い男の人が、訪ねてきた。
三十五くらいの、日に焼けた人だった。
坂の下の、田村さんの家の、孫です、と言った。
田村さんは、十年前に、町の娘さんのところへ移った。
二年前に、亡くなったと聞いていた。
田村さんとは、四十年、となりの坂で暮らした。
畑の野菜を、よく分けあった。
町へ移っていく日、田村さんは、雨戸を閉めながら、言った。
あんたは、ここにいてね。
わたしは、はい、とだけ言った。
男の人は、言った。
ぼく、仕事の帰りに、ときどき、谷の向こうの県道を通るんです。
夜、県道から見下ろすと、この谷は、真っ暗です。
でも、一つだけ、明かりが見えるんです。
ずっと、それが、気になっていました。
県道は、カーブが多いんです。
あの明かりを目じるしに、ハンドルを切ってました。
男の人は、少し照れたように、笑った。
祖母に話したことがあります。
あの谷に、まだ明かりがついてるよ、って。
祖母は、ああ、あれは、角の家の奥さんだね、と言いました。
あの人が、まだ、住んでるんだね、って。
それから、祖母は、少し泣きました。
わたしは、なんと言っていいか、わからなかった。
夜、県道から、この窓が見えるとは、知らなかった。
第四章 まだ、ある
男の人は、続けた。
祖母は、死ぬまで、あの家に帰りたい、と言っていました。
でも、だれもいない谷に、帰っても、しかたがない、とも言っていました。
あの明かりが見えると、祖母は、言ったんです。
谷は、まだ、ある。
だれかが、住んでいる。
わたしの家は、まだ、帰れる場所の、となりにある、って。
あんたは、ここにいてね。
あの日の田村さんの声を、思い出した。
わたしは、はい、と言った。
それから十年、言われたとおりに、ここにいただけだった。
男の人は、坂の下の、田村さんの家を、ふり返った。
雨戸の閉まった、屋根に草の生えた家だ。
ぼく、あの家を、直して、住もうと思うんです。
妻と、子どもが二人います。
谷に明かりが一つでもあるなら、二つ目をつけられる気がして。
わたしは、その人の顔を、じっと見た。
田村さんの、目に、よく似ていた。
帰りぎわ、男の人は、玄関の前の道を見て、言った。
冬も、雪がかいてありましたよね。
県道から、道の線が、ちゃんと見えてました。
その夜、わたしは、いつものように、居間の電気をつけた。
窓の外は、いつものように、真っ暗だった。
でも、その暗さの向こうに、県道がある。
そこを、だれかが、車で走っている。
そう思って、カーテンを、少しだけ、開けておいた。
第五章 毎日の明かり
毎日、人が住んでいた家だった。
わたしは、何もしていない、と思っていた。
朝、雨戸を開けて、夕方、電気をつけて、夜、消した。
それだけだった。
でも、それだけのことを、十年、毎日、だれかがしていた。
だから、この谷は、空っぽにならなかった。
雪をかいた道も、だれも通らないと思っていた。
でも、道があるから、帰ってこられる。
住んでいる家があるから、帰る場所がある。
わたしは、留守番をしていたのではなかった。
この谷に、住んでいたのだ。
ここにいる、ということを、毎日、していたのだ。
毎日、ふつうに。
話すことが何も無い一日を、一日も、休まなかった。
ふつうに住むことが、だれかにとっての、明かりだった。
息子が来たとき、わたしは、その話をした。
息子は、しばらく黙って、それから、言った。
ぼくも、町から帰るとき、あの窓が見えると、ほっとしてたよ。
言ったことなかったけど。
わたしは、知らなかった。
七十六年、知らないことばかりだ。
息子は、帰りの車の窓を開けて、気をつけてね、と言った。
わたしが言う言葉を、息子が言った。
エピローグ
夏の終わり、坂の下の家に、足場が組まれた。
週末になると、田村さんの孫が、子どもを連れて、屋根を直しに来る。
小さな女の子が、わたしの家の前を通るとき、手をふる。
わたしも、手をふる。
秋の夜、居間の電気をつけて、窓の外を見た。
坂の下に、小さな明かりが、一つ、ついていた。
まだ住んではいない。
工事の明かりだ。
それでも、谷に、明かりが、二つになった。
その夜、わたしは、八年ぶりに、玄関の外灯をつけた。
坂の下から、見えるように。
わたしは、いつものように、みそ汁の鍋を、火にかけた。
明日も、六時に起きて、雨戸を開ける。
それだけだ。
それで、いいのだと思う。
あなたの魂のテーマに気づく場所