から積みの石垣
湿っぽいことは、何も言わなかった

朗読で聴く
第一章 父の谷
六十六になった。
スコットランドの大きな町で、四十七年、バスの整備士をしてきた。
去年、仕事をやめた。
妻と二人で、町の小さな家に住んでいる。
息子は四十で、ロンドンで働いている。
この春、父が死んだ。
九十二だった。
父は、北の山あいの谷で、一人で暮らしていた。
石垣を積む職人だった。
谷の石垣は、セメントを使わない。
石だけを、組み合わせて積む。
から積み、という。
父は、七十年、その石垣を積み、直してきた。
葬式のために、わたしは、十何年ぶりに、谷に帰った。
バスを二回乗りかえて、半日かかった。
谷は、昔と、何も変わっていなかった。
灰色の空と、羊と、斜面を走る、何本もの石垣。
どの石垣も、父の手が、一度はふれたものだった。
父の家は、石造りの、小さな家だった。
台所の窓の下に、父の道具箱が置いてあった。
重いハンマーと、鉄の棒と、すり減った革の手袋。
第二章 石の心
父は、湿っぽいことを、何も言わない人だった。
わたしが十二のとき、母が病気で死んだ。
葬式の日、父は、泣かなかった。
次の日の朝、父は、いつものように、道具を持って、石垣を直しに出ていった。
わたしは、家に一人で残された。
その夜、父は、台所で、オートミールを作った。
わたしは、食べなかった。
父は、何も言わずに、わたしの分を、鍋にもどした。
父さんの心は、石でできている、と思った。
それから、父と二人で、六年暮らした。
父は、朝、オートミールを作り、夕方、帰ってきて、紅茶をいれた。
話すことは、天気と、羊と、石のことだけだった。
学校のことを聞かれたことは、ほとんど無い。
一度だけ、父の手を、近くで見たことがある。
指の関節が、石のように、ふくらんでいた。
十八のとき、わたしは、町に出ると言った。
父は、そうか、とだけ言った。
バス停まで、送りにも来なかった。
町に出てから、月に一度、電話をかけた。
父は、いつも、同じことを言った。
ああ。こっちは、天気はいい。
雨の日でも、そう言った。
結婚したときも、子どもが生まれたときも、父は、ああ、とだけ言った。
四十八年、父とは、湿っぽい話を、一つもしなかった。
第三章 学校への道
葬式のあと、となりの家のモラグが、わたしを呼び止めた。
八十すぎの、背の曲がったおばあさんだ。
母が死んだあと、ときどき、わたしにスープを持ってきてくれた人だ。
あんた、学校への道の石垣、見ていきなさい。
谷の家から、昔の学校まで、丘を越える細い道がある。
道の片側に、ずっと、石垣が続いている。
九つのとき、わたしは、その石垣の上を歩いていて、落ちた。
石垣の上を歩くのは、谷の子どもの遊びだった。
父には、一度だけ、やめろと言われていた。
右の腕の骨を折った。
父は、わたしを背負って、谷の医者まで歩いた。
一時間かかった。
そのあいだ、父は、一言も話さなかった。
医者の前で、父は、わたしに言った。
治る。
それだけだった。
わたしは、痛いのと、さびしいのとで、泣いた。
父の背中は、固くて、冷たかったと覚えている。
モラグに言われて、わたしは、その道を、一人で歩いた。
道は、昔より、ずっとせまく見えた。
石垣は、わたしの腰の高さほどだった。
子どものころは、肩まであると思っていた。
第四章 五十七年
学校への道の石垣は、ほかの石垣と、ちがっていた。
どこにも、崩れたところが無かった。
石と石のあいだに、すきまが無かった。
てっぺんには、平たい石が、ぎっしりと、並べてあった。
上を歩いても、ぐらつかないように。
子どもが、足をすべらせないように。
谷のほかの石垣は、あちこちが崩れて、羊が越えていた。
この道の石垣だけが、新しく積んだように、まっすぐだった。
道の終わりまで、四百歩ほど。
そのあいだ、ゆるんだ石は、一つも無かった。
家にもどると、モラグが、紅茶をいれて待っていた。
あんたが腕を折った次の春からね、と、モラグは言った。
あの人は、毎年、春になると、あの石垣を、端から端まで、見て歩いた。
ゆるんだ石は、一つずつ、積みなおした。
上の石は、全部、平たいものに替えた。
九十になっても、やめなかった。
去年の春も、杖をついて、歩いていたよ。
うちの窓から、毎年、それを見ていたよ。
わたしは、何も言えなかった。
何か言っていましたか、と、やっと聞いた。
モラグは、笑った。
あの人が、何か言うもんかね。
ただ、積んでいただけさ。
それから、モラグは、少し考えて、言った。
あんたから電話があった日はね、あの人、いつもより長く、あの道を歩いてたよ。
五十七年。
わたしが腕を折ってから、五十七年、父は、あの石垣を、黙って積み直していた。
第五章 から積み
その夜、父の家で、一人で、紅茶を飲んだ。
台所の窓から、暗い斜面に、石垣の線が、うっすら見えた。
から積みの石垣は、セメントを使わない。
石と石は、何もくっつけていない。
それでも、崩れない。
一つずつの石が、となりの石に、重さをあずけているからだ。
父は、湿っぽいことを、何も言わなかった。
治る、と言っただけだった。
ああ、天気はいい、と言っただけだった。
春の電話では、いつも、そう言った。
あれは、今年も、あの道を見て歩ける、という意味だったのかもしれない。
でも、父の心は、石ではなかった。
石を積む人の心だった。
言葉で、わたしをくっつけようとはしなかった。
ただ、わたしが二度と落ちないように、石を一つずつ、積んでいた。
わたしが谷を出てからも、ずっと。
父の背中は、固くて冷たかったと、ずっと覚えていた。
でも、あの日、父は、一時間、わたしを背負って歩いたのだ。
一度も、下ろさずに。
どれだけ重かったか、父は、一度も言わなかった。
わたしは、町で、四十七年、バスを直してきた。
だれにも、ありがとうと言われない仕事だった。
でも、ブレーキを一つずつ確かめるとき、わたしは、乗る人の顔を考えていた。
それも、だれにも言わなかった。
父と、同じだったのかもしれない。
エピローグ
次の朝、わたしは、町に帰るバスを、一日遅らせた。
父の道具箱を持って、学校への道に出た。
石垣のまん中あたりに、上の石が一つ、少しずれているところがあった。
この冬の雪で、ゆるんだのだろう。
父は、この春は、もう見に来られなかった。
わたしは、その石を、両手で持ち上げた。
思ったより、ずっと重かった。
となりの石と石のあいだに、合う向きをさがして、置き直した。
三度目で、ぴたりと、おさまった。
父なら、一度で置いただろう。
上を、手でおしてみた。
ぐらつかなかった。
丘の上から、谷を見下ろした。
灰色の空の下で、何本もの石垣が、斜面を走っていた。
わたしは、何も言わなかった。
道具箱を持って、次のゆるんだ石を、さがして歩いた。
夕方、町の妻に、電話をかけた。
どう、と聞かれた。
ああ、とわたしは言った。こっちは、天気はいい。
言ってから、少し笑った。
父と、同じことを言っていた。
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