泣かない看護師
湿っぽいことは、何も言わなかった

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第一章 最後の月
六十になった。
この三月で、看護師の仕事を終える。
二十二で、町の病院に入って、三十八年。
そのほとんどを、内科の病棟で働いた。
お年寄りの多い病棟だ。
長く入院する人も、ここで亡くなる人も、多い。
病棟は、四階にある。
窓からは、川と、古い橋が見える。
夜勤の夜は、その橋の街灯を数えながら、廊下を歩く。
わたしは、病棟で、泣かない看護師と言われてきた。
患者さんが亡くなっても、泣かない。
家族の人が泣いていても、いっしょに泣かない。
言うことも、決まっている。
お熱は、三十七度二ぶです。
お薬の時間です。
今夜は、わたしがいます。
それだけだ。
やさしい言葉を、うまく言えたことが、一度も無い。
夫は、三年前に、病気で死んだ。
子どもはいない。
家に帰ると、一人で、ごはんを食べて、早く寝る。
夜勤の前の日は、昼のうちに、少し眠っておく。
三十八年、それを、くり返してきた。
第二章 冷たい人
去年の秋、若い看護師に言われた。
先輩は、冷たいと思います。
二十六の、まっすぐな子だった。
患者さんの家族といっしょに泣くのも、看護だと思います。
先輩みたいに、事務的にしか話さないのは、いやです。
わたしは、そうね、とだけ言った。
言い返す言葉が、無かった。
その子は、家族の人の手をにぎって、よく泣いた。
家族の人も、その子には、たくさん話をした。
わたしには、だれも、そんなふうに話さなかった。
夜、家に帰って、台所で、お茶を飲みながら考えた。
わたしは、冷たかったのだろうか。
三十八年、泣かずに、決まったことだけを言ってきた。
それは、看護だったのだろうか。
ただ、心が乾いていただけではなかったか。
あの子のように、家族の人の手をにぎって泣いてみようか、と思ったこともある。
でも、できなかった。
涙は、仕事のあいだ、いつも、どこかに引っこんでいた。
夫が死んだときも、わたしは、病室で、泣かなかった。
医者が時計を見て、時刻を言ったとき、わたしは、はい、と言った。
泣いたのは、家に帰って、夫の靴を見たときだった。
だれも、それを知らない。
次の日も、わたしは、いつもの時間に病棟に行った。
お熱は、三十六度九ぶです、と、同じ声で言った。
第三章 夜の廊下
夜勤の夜、わたしは、いつも、同じことをした。
具合の悪い人の部屋の前の廊下に、椅子を一つ置く。
家族の人が、一晩、付きそうときだ。
部屋の中には、入らない。
入るのは、見回りと、点滴を替えるときだけ。
あとは、廊下の椅子に座って、待つ。
椅子は、ナースステーションの、古い丸椅子だ。
座ると、少しきしむ。
夜中の廊下は、静かだった。
点滴の機械の小さな音と、遠くの部屋の寝息だけ。
ときどき、部屋の中から、泣く声が聞こえた。
わたしは、立ち上がらなかった。
呼ばれたら行く。呼ばれなければ、座っている。
家族の人には、最初に、二つだけ言う。
手を、にぎっていてあげてください。
耳は、最後まで、聞こえています。
それから、もう一つ。
わたしは、廊下にいます。
それで、部屋を出る。
なぜそうするのか、だれかに説明したことは、無い。
若いころ、先輩の看護師が、そうしていたのを見て、まねをした。
部屋に看護師がいると、家族の人は、泣けない。
話したいことも、話せない。
その先輩は、そう言っていた。
だから、わたしは、廊下にいる。
朝になると、温かいタオルを持って、部屋に入る。
お顔を、ふいてあげましょうか。
わたしが言うのは、それだけだ。
第四章 二十年前の人
三月の最後の週、病棟に、一人の女の人が訪ねてきた。
四十五くらいの、背の高い人だった。
ナースステーションの前で、わたしの顔を見て、言った。
やっぱり。まだ、いらしたんですね。
わたしは、その人を、覚えていなかった。
二十年前の、ある夜。
廊下に椅子を置いた夜は、何百もあった。
その人は、言った。
二十年前、父が、この病棟で亡くなりました。
夜中でした。母はもういなくて、わたしは二十五で、一人でした。
どうしていいか、わかりませんでした。
そのとき、看護師さんが、言ったんです。
手を、にぎっていてあげてください。耳は、最後まで聞こえています。
わたしは、廊下にいます。
そう言って、出ていきました。
わたしは、父の手をにぎって、一晩じゅう、話をしました。
子どものころのこと。言えなかったこと。ありがとうも、ごめんなさいも。
声を出して、泣きました。
だれもいなかったから、泣けたんです。
ときどき、ドアのすきまから、廊下が見えました。
看護師さんが、椅子に座って、ずっと起きていました。
朝、温かいタオルを持ってきてくれました。
お顔を、ふいてあげましょうか、って。
第五章 乾いた声
その人は、続けた。
あのとき、看護師さんが、いっしょに泣いていたら。
わたしは、たぶん、看護師さんに気をつかって、泣けませんでした。
父と二人になれたのは、看護師さんが、泣かなかったからです。
わたし、あのあと、看護学校に入ったんです。
今は、隣の市の病院で、夜勤をしています。
夜、家族の人が付きそうとき、わたしも、廊下にいます。
あなたの、まねです。
その人は、少し笑った。
若い人には、冷たいって言われます、と。
わたしは、何も言えなかった。
湿っぽいことは、何も言わなかった。
三十八年、言えなかった。
でも、それは、心が乾いていたからではなかった。
泣かない人が、廊下に一人いること。
決まった言葉を、同じ声で、言うこと。
それが、部屋の中の人を、泣かせていたのだ。
わたしの乾いた声は、だれかが泣くための、場所を空けていた。
その人は、帰りぎわに、言った。
あの夜の、看護師さんの声、今でも覚えています。
すごく、ふつうの声でした。
それが、いちばん、安心しました。
わたしは、ありがとうございます、とだけ言った。
それも、いつもと同じ声だった。
ナースステーションの奥で、あの若い看護師が、じっと聞いていた。
その子は、何も言わなかった。
でも、その日から、わたしに、冷たいとは言わなくなった。
夜勤の前に、廊下の丸椅子の場所を、黙って聞きに来た。
エピローグ
三月の最後の夜勤の日、わたしは、いつものように、見回りをした。
お熱は、三十六度八ぶです。
お薬の時間です。
今夜は、わたしがいます。
夜中の二時、一つの部屋の前の廊下に、椅子を置いた。
奥さんが、ご主人に、付きそっていた。
手を、にぎっていてあげてください。耳は、最後まで聞こえています。
わたしは、廊下にいます。
椅子に座ると、隣に、もう一つ、椅子が置かれた。
あの若い看護師だった。
何も言わずに、わたしの隣に座った。
椅子が、少しきしんだ。
部屋の中から、小さな話し声が聞こえてきた。
それから、泣く声。
わたしたちは、廊下で、朝まで、黙って座っていた。
廊下の窓の外で、古い橋の街灯が、一つずつ消えていった。
朝、若い看護師が、温かいタオルを持って、立ち上がった。
お顔を、ふいてあげましょうか。
その声は、わたしの声に、少し似ていた。
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