家計簿
湿っぽいことは、何も言わなかった

朗読で聴く
第一章 泣かない母
七十になった。
川ぞいの町の、古い一軒家に住んでいる。
夫は、五年前に死んだ。
娘のサキは四十二で、遠くの町に住んでいる。
この春、母が死んだ。
九十四だった。
駅の向こうの古いアパートで、最後まで一人で暮らしていた。
母は、湿っぽいことを、何も言わない人だった。
父の葬式の日も、泣かなかった。
わたしが三十のときだ。
母は五十四で、黒い服を着て、お客さんにお茶を出していた。
一度も、ハンカチを出さなかった。
親せきのおばさんが、あんたのお母さんは強いね、と言った。
わたしは、強いのではなく、冷たいのだと思った。
子どものころ、母に、かわいいと言われたことは無い。
頭をなでられたことも、覚えていない。
わたしが熱を出しても、母は、薬を置いて、仕事に行った。
母は、近くの縫製工場で、ミシンをかけていた。
帰ってくると、熱はどう、と聞いた。
十のとき、夏祭りで、母とはぐれたことがある。
一時間、神社のまわりを泣きながら歩いた。
見つけてくれたのは、母だった。
母は、わたしを抱きしめなかった。
帰るよ、とだけ言って、先に歩き出した。
わたしは、母の背中を見ながら、ついて帰った。
それだけだった。
第二章 ひとことの人
わたしが結婚した日、母は、ひとことだけ言った。
風邪をひかないように。
それだけだった。
式のあと、ほかの家のお母さんたちは、みんな泣いていた。
わたしの母は、泣かなかった。
サキが生まれた日も、母は、病院に来て、言った。
よかったね。
そして、タオルを三枚置いて、帰っていった。
わたしは、母のようにはならない、と決めた。
サキには、毎日、かわいいね、と言った。
泣いたら抱きしめて、いっしょに泣いた。
手紙も、たくさん書いた。
サキは、今でも、わたしを、やさしいお母さん、と言ってくれる。
母とは、ちがう母親になれたと思っていた。
年をとってからも、母は変わらなかった。
月に一度、わたしがアパートに行くと、母は言った。
来たの。
帰るときは、気をつけて、とだけ言った。
母の台所には、いつも、大根の煮物があった。
わたしは、母は大根が好きなのだと思っていた。
一度も、来てくれてうれしい、とは言わなかった。
わたしも、言わなかった。
七十年、母とは、湿っぽい話を、一つもしなかった。
第三章 七十冊
母のアパートを片づけたのは、五月だった。
部屋は、驚くほど、物が少なかった。
服が少しと、鍋が二つ。
ミシンが一台。
台所には、使いこんだ大根おろしと、うすくなったまな板。
冷蔵庫には、大根が半分、ラップをして残っていた。
押し入れの奥に、段ボールの箱が一つあった。
中には、古い家計簿が、ぎっしり入っていた。
数えると、七十冊あった。
いちばん古い一冊は、わたしが生まれた年のものだった。
わたしは、それを、何の気なしに開いた。
母の、小さな、角ばった字だった。
大根、八十円。豆腐、四十円。
それから、その下に、一行。
ミチコ、熱、三十八度二ぶ。
わたしの名前だった。
次のページにも、あった。
ミチコ、熱、下がる。おかゆ、半分。
その次のページにも。
ミチコ、歯が一本ぬけた。
ミチコ、遠足。おにぎり三つ。
ミチコ、さか上がり、できた、と言う。
十の年の、八月のページには、こうあった。
ミチコ、祭りで、はぐれる。一時間。見つかる。
その下に、小さく、もう一行。
帰り道、足が、ふるえる。
母の足のことだった。
母が、自分のことを書いたのは、そこだけだった。
どのページにも、野菜の値段と、天気と、わたしのことが書いてあった。
感想は、一つも無かった。
うれしいも、かわいいも、さびしいも、無かった。
ただ、あったことだけが、毎日、一行ずつ、書いてあった。
第四章 あったことだけ
わたしは、その夜、母のアパートの床に座って、家計簿を読み続けた。
わたしが家を出た年の家計簿にも、わたしの名前があった。
ミチコから電話。三分。声、元気。
ミチコ、引っこし。手伝いに行かない。いそがしいだろう。
ミチコ、誕生日。電話しない。電話すると、気をつかうだろう。
わたしの結婚式の日のページには、こう書いてあった。
式。晴れ。ミチコ、白い服。
タクシー、千二百円。
それだけだった。
でも、その日だけ、字が少しふるえていた。
サキが生まれた日。
ミチコの子、女。三千百グラム。
タオル、三枚、持っていく。
ミチコ、四十二で、課長になった、と電話。
赤飯、炊かない。一人では多い。
小豆だけ、買う。
夫が死んだ年も、あった。
ミチコ、やせた。電話の声、小さい。
ミチコに、大根、煮て送る。
そうだった。あの冬、母から、大根の煮物が届いた。
手紙は、入っていなかった。
わたしは、それを、母らしいと思って、少し腹を立てた。
最後の一冊は、母が入院する前の日で、終わっていた。
ミチコ、来る。大根、煮る。
わたしが最後にアパートに行った日だった。
あの日、母は、来たの、とだけ言った。
そして、台所で、大根を煮ていた。
大根の煮物は、子どものころから、わたしの好物だった。
母は、それを、一度も口に出さなかった。
第五章 湿っぽくない人
母は、湿っぽいことを、何も言わなかった。
七十年、一度も。
でも、母は、何も感じていなかったのではなかった。
感じたことを、言わなかっただけだ。
その代わりに、毎日、あったことだけを、書いていた。
わたしの熱の、小数点まで。
わたしの電話の、分の数まで。
七十年、一日も欠かさずに。
わたしは、母を、冷たいと思ってきた。
でも、冷たい人は、人の熱を、小数点まで書かない。
母の言葉は、少なかった。
でも、母の目は、ずっと、わたしを見ていた。
声を出さないで、見ていた。
夏祭りの夜を、思い出した。
わたしは、先を歩く母の背中を、冷たい背中だと思っていた。
でも、あの背中の向こうで、母の足は、ふるえていたのだ。
それを、母は、だれにも言わなかった。
家計簿の、小さな一行にしか。
わたしが、サキに言ってきた、たくさんの、かわいいね。
それも、うそではなかったと思う。
でも、母のように、毎日、一行ずつ見ていたかと聞かれたら、自信は無い。
わたしは、家計簿の箱を、家に持って帰った。
七十冊は、少し重かった。
今も、母の箱のまま、押し入れに置いてある。
ときどき、一冊出して、読む。
どのページにも、天気と、野菜の値段と、わたしがいる。
エピローグ
六月、わたしは、文房具屋で、新しい家計簿を一冊買った。
いちばん安い、うすい一冊だ。
その夜、台所で、大根を煮た。
母と同じように、厚く切って、しょうゆと砂糖だけで。
それから、家計簿を開いて、書いた。
大根、百二十円。雨。
そこまで書いて、少し考えた。
夕方、サキから、電話があったのだ。
わたしは、その下に、一行足した。
サキから電話。五分間。声、元気。
母の字より、少し丸い字だった。
それでも、並べて見ると、どこか似ていた。
うれしかった、とは、書かなかった。
書かなくても、ちゃんと、わかる気がした。
大根の煮える音が、台所に、小さく続いていた。
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