黒い傘
どれも、ありふれた物だった

朗読で聴く
第一章 最後の日
六十五になった。
今日で、市役所の仕事を終える。
二十二で入って、四十三年。
そのほとんどを、市民課の窓口で過ごした。
六十で一度、定年になった。
そのあと五年、同じ窓口に、残してもらった。
窓口の仕事は、紙を受け取ることだ。
出生届、婚姻届、転入届、死亡届。
紙を受け取って、まちがいが無いかを見て、はんこを押す。
それを、四十三年。
窓口には、いろいろな人が来た。
赤ちゃんを抱いた、若い夫婦。
引っこしてきたばかりで、町の名前もまだ言いなれない人。
黒い服を着て、目の赤い人。
わたしは、だれにも同じように、紙を受け取った。
同じ声で、同じ言葉で。
それが、窓口の仕事だと思っていた。
出世は、しなかった。
係長より上には、ならなかった。
大きな仕事をしたことも、無い。
新聞にのるような仕事は、一つもしなかった。
最後の日も、いつもと同じように、八時半に窓口をあけた。
朝から、雨がふっていた。
送別会は、ことわった。
お祝いされるようなことは、何もしていないと思った。
妻は、朝、げんかんで、おつかれさま、とだけ言った。
第二章 窓口の下
窓口の台の下に、古い段ボールの箱が一つある。
中には、黒い傘が十本ほど入っている。
どれも、どこにでも売っている、ありふれた黒い傘だ。
市役所には、毎年、たくさんの忘れ物の傘が残る。
三か月たっても取りに来ない傘は、捨てることになっている。
三十五年前、わたしは、その中から、黒い傘を何本か、家に持ち帰った。
折れた骨を、針金で直した。
破れたところは、黒い布をあてて、ぬった。
そして、窓口の台の下に置いた。
雨の日、傘を持たずに来た人に、貸すためだ。
お返しは、いらないです、と言って、わたした。
名前も、書いてもらわなかった。
返ってくる傘もあった。返ってこない傘もあった。
一度、返ってきた傘の持つところに、小さな紙がまいてあった。
ありがとうございました、とだけ書いてあった。
名前は、無かった。
わたしは、その紙を、捨てられなかった。
今も、家の机の引き出しに入っている。
箱が少なくなると、また、忘れ物の傘を直して、足した。
三十五年で、何本貸したのか、数えていない。
何百本には、なるだろう。
だれにも、言わなかった。
仕事というほどのことでも、なかった。
ただ、雨の日に、ぬれて帰る人を見るのが、いやだっただけだ。
最後の日の朝も、箱には、黒い傘が七本、入っていた。
第三章 何も無い四十三年
昼すぎ、窓口に、若い二人が来た。
婚姻届を、出しに来たのだ。
女の人は、二十六。男の人は、二十八。
うしろに、五十すぎの女の人が、一人立っていた。
女の人の、お母さんらしかった。
わたしは、いつものように、紙を受け取った。
字のまちがいが無いかを見て、はんこを押した。
おめでとうございます、と言った。
四十三年、何千回と言ってきた言葉だ。
これで、わたしの最後の届けかもしれない、と思った。
ありふれた紙だった。
どこの役所にもある、同じ形の、同じ用紙。
わたしの四十三年は、そういう紙を、受け取ってきただけだった。
自分の名前は、どの紙にも残らない。
はんこは、市役所のはんこで、わたしのはんこではない。
わたしがいなくても、だれかが同じように、受け取っただろう。
何も残らない仕事だった、と思った。
家に帰っても、仕事の話は、ほとんどしなかった。
話すようなことが、何も無かったからだ。
息子が小さいころ、お父さんの仕事は何、と聞かれた。
紙をもらう仕事だよ、と答えた。
息子は、ふうん、と言って、それきりだった。
そのとき、うしろのお母さんが、窓口の前に出てきた。
手に、細長い紙の袋を持っていた。
第四章 二十二年前の雨
お母さんは、袋から、一本の傘を出した。
黒い傘だった。
持つところの木が、手の形に、白っぽくすり減っていた。
骨の一本に、針金が巻いてあった。
わたしの巻いた針金だった。
三十五年、何百本にも巻いてきた、同じ巻き方だった。
二回まわして、はしを内側に折りこむ。
お母さんは、言った。
二十二年前の、十一月でした。
夫が、仕事の事故で、死にました。
死亡届を出しに、ここに来ました。
この子は、四つでした。
帰ろうとしたら、外は、ひどい雨でした。
傘を持ってくるのも、忘れていました。
何も考えられなかったんです。
そうしたら、窓口の方が、台の下から、この傘を出してくれました。
お返しは、いらないです、って。
わたしは、その日のことを、覚えていなかった。
雨の日の、何百本の中の、一本だった。
お母さんは、続けた。
あの日から、うちの傘は、これだけでした。
この子の入学式も、卒業式も、この傘でした。
新しい傘を買うお金も、ありませんでしたし。
それに、なんだか、この傘だと、ぬれない気がして。
娘さんが、少し笑って、言った。
小さいころ、この傘の中が、いちばん安心だったんです。
第五章 ありふれた物
お母さんは、言った。
今日、窓口に同じ方がいたら、見せたかったんです。
返しに来たんじゃないんです。
この子が、この傘を、新しい家に持っていくって言うので。
わたしは、傘を、両手で受け取った。
軽かった。
どこにでもある、ありふれた黒い傘だった。
針金も、ぬい目も、ありふれた直し方だった。
でも、その傘は、二十二年、この家族の雨の日を、全部、知っていた。
わたしは、窓口の紙のことを、思った。
出生届、婚姻届、死亡届。
どれも、ありふれた紙だった。
でも、その一枚ずつが、だれかの一生の、一日だった。
生まれた日。結婚した日。いちばん大事な人を、なくした日。
わたしは、四十三年、その一日を、受け取ってきたのだ。
特別なことは、何もしていなかった。
ありふれた紙を受け取り、ありふれた傘を貸しただけだ。
でも、ありふれた物だったから、人は、それを毎日使えた。
毎日使えたから、二十二年、そばにあった。
わたしは、傘を、娘さんに返した。
どうぞ、お幸せに、と言った。
声が、少しふるえた。
お母さんは、深く頭を下げた。
娘さんと、となりの男の人も、頭を下げた。
三人は、一本の黒い傘を持って、雨の中へ出ていった。
わたしは、窓口から、三人の背中が見えなくなるまで見ていた。
エピローグ
五時十五分、わたしは、窓口をしめた。
台の下の段ボール箱は、若い係の人に、わたした。
中には、黒い傘が七本。
雨の日に、困っている人に貸してください。
お返しは、いらないです、と言ってください。
若い人は、少しふしぎそうな顔で、はい、と言った。
それで、いいと思った。
ふしぎなことでは、ないのだから。
外に出ると、雨はまだ、ふっていた。
わたしは、自分の古い黒い傘を、ひらいた。
これも、三十年前に、忘れ物の中から直した一本だ。
駅までの道を、ゆっくり歩いた。
交差点で、ランドセルの子どもが、黒い傘の下を走っていった。
どこにでもある傘だった。
家に帰ると、妻が、おかえり、と言った。
わたしは、げんかんの傘立てに、黒い傘を立てた。
四十三年、雨の日の夜は、いつもそうしてきたように。
あなたの魂のテーマに気づく場所